ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

『トイ・ストーリー4』というシリーズ最大の闇を受け入れるにあたって

FOLLOW ME 

『トイ・ストーリー4』が公開され、一週間と少しが経過した。

 

鑑賞した際には、頭の中に渦巻く様々な感情とどう向き合うべきか悩みつつ、以下のような感想記事を書いた。怒りながらむせび泣く、新手の感情。作品のメッセージを理解したい自分と、テーマに納得できない自分。あれから一週間以上、ネットの海に漂う無数の感想(あるいは賛辞、あるいは阿鼻叫喚)を読み漁り、少しずつ、本作に対する心の整理がつき始めている。

 

www.jigowatt121.com

 

以下、ネタバレに触れる形で、『トイ・ストーリー4』のテーマや結末に対する追加の解釈を書き連ねたい。(前回は思い入れの観点から、今回は主に作品構造の面から)

 

スポンサーリンク

 

 

 

先の記事でも書いたように、本シリーズにおけるウッディは、ひらすたに「子どもの側にいることの尊さ」を主張してきた。連なるように、物語の落としどころやテーマも、そこに設定されている。

 

これをもっと正確に突き詰めると、ずっと信奉してきたのは「アンディの側にいることの尊さ」であり、ウッディがこの「アンディ」を「子ども」に読み替えることを(自分の心の中で)「あり」としたのが、名作『トイ・ストーリー3』なのだ。

 

トイ・ストーリー3 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

トイ・ストーリー3 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

 

 

そもそもの大前提として、おもちゃは命を持たない。当たり前である。ピクサーはこのフィクションの壁を、前人未踏の長編フルCGアニメーションと共に乗り越え、新しい世界観を創造したのである。

 

では、ウッディたちおもちゃの命について、我々はどう解釈するべきか。実は、『4』における「迷子のおもちゃ」(特定の持ち主を持たずに自由奔放に生きるおもちゃ)という概念は、秘かな問題提起として一作目の時点から存在していた。「彼らは、いつ命を吹き込まれ、どこで何を学び、日々のコミュニケーションを行っているのか」「人前で静止するのは強制プログラムなのか、彼らの自由意志による行動なのか」「なぜ彼らは勝手に逃げ出して野生化しないのか」。

 

こういった、「おもちゃの自由奔放さ」に潜む設定の嘘、言うなれば欺瞞のような側面を、『トイ・ストーリー』は「おもちゃは持ち主のために尽くすべきである」というテーマでねじ伏せたのである。

 

トイ・ストーリー MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

トイ・ストーリー MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

 

 

おもちゃは持ち主のために生き、尽くすべきである。それを信奉するウッディと、その概念をまだ知らないバズ。両極端の主張を持つ彼らが出会うことで、物語は転がり始める。彼らが命を持っているのは、「子どものため」。日々の悩みも苦労もその全てが、「子どものため」。勝手に逃げ出さないのも、「子どものため」。人前で途端に静止するのも、トラブルを避け使命を全うする、つまりは「子どものため」。

 

設定面に存在するいくつかの欺瞞を、「子どものため」という綺麗で眩しいテーマでねじ伏せる。だって、「おもちゃが実は命を持っていて、子どもに遊ばれることを最高の幸せに感じている」って、ステキな話じゃない。まるで童話のような、夜中に妖精が靴を作ってくれるような、そんな「ココロ温まる」雰囲気がそこにある。

 

構造だけを取り出せば「隷属」という単語も浮かんでしまうほどに、『トイ・ストーリー』という物語は欺瞞に満ちている。しかしそれを、圧倒的な「ココロ温まる寓話性」と、「子どものため」というメッセージで覆い隠してしまう。そのクレバーな組み立てこそが、ピクサースタジオの妙技だったのだろう。

 

一作目では、「アンディの側にいる尊さ」を。二作目は、「例え捨てられる未来が待っていたとしても、それでもアンディの側にいることの意義」を。三作目は、「持ち主が変わっても、仲間たちと共に子どもの側にいる選択」を。

 

ウッディは、シリーズがナンバリングを重ねることに、ゆっくりと解釈を広げてきた。「絶対にアンディの側を離れたくない!」という一作目に始まり、二作目で「仮に将来的に捨てられても構わない」という運命を受け入れ、三作目は実際にそれに近い転機が訪れる。「もし捨てられても」「もしアンディじゃなくても」。ウッディは、アンディの成長と共に自身の解釈を広げ、妥協を重ねてきたのだ。

 

完璧なエンディングだと感じている『3』も、解釈と妥協というフィルターを通せば、実は非常に偏った帰結なのかもしれない。ウッディたちはボニーに貰われることで「子どもの側にいる」ことを継続可能とするエンディングだが、それは実は、「捨てられるかもしれない」という問題を単に先延ばしたに過ぎない。ボニーがまた成長して、おもちゃの処分を迫られた際に、アンディのように誰かに譲ってくれるだろうか。そんな、仲間の命運を背負った大博打が、また十数年後に訪れてしまう。

 

手塚治虫の『火の鳥』で描かれたような、生きて、死んで、生きて、死んで、生きて、死んで・・・。絶えることのない「輪廻」からは逃れられない、苦しみを伴ったエンディングこそが『3』なんだと、そう言い換えることもできる。

 

しかし、そこにどんな解釈を持ち込もうと、やはり『3』は素晴らしいのだ。

 

その救いのない「輪廻」において、ウッディたちが愛して止まなかったアンディという絶対的な存在が、次世代に彼らを託す。この、「継承」という黄金プロットが強い。救われない、報われない、おもちゃが絶対に逃れられない運命。そのループの中でも、アンディという持ち主は本当に「特別」だった。彼が「特別」だったからこそ、ボニーという次の世代への継承が映える。アンディは、「輪廻」の中に棲む特殊な存在だったのだ。

 

スポンサーリンク

 

 

 

我々は、一作目からずっと、「アンディに大事にされるおもちゃ」を目にしてきた。だからこそ、彼らがアンディの元を離れる結末には涙が止まらないし、『トイ・ストーリー』というシリーズは「ウッディたちとアンディの物語」だと、信じて疑わなかった。

 

からの、『4』である。今までの『トイ・ストーリー』は実は「アンディ編」でした、とでも言わんばかりに、新しい環境で展開される物語。『2』までで姿を消していたボーが再登場し、ウッディは思っていたよりずっと早く「輪廻」の暗部に触れてしまう。

 

トイ・ストーリー4 (オリジナル・サウンドトラック)

トイ・ストーリー4 (オリジナル・サウンドトラック)

トイ・ストーリー4 (オリジナル・サウンドトラック)

  • アーティスト: ランディ・ニューマン
  • 出版社/メーカー: Walt Disney Records
  • 発売日: 2019/06/21
  • メディア: MP3 ダウンロード
  • この商品を含むブログを見る
 

 

更には、アンディという「特別」が不在となったことで、シリーズがずっとひた隠しにしてきた欺瞞が、ここにきて露見するのである。

 

「彼らは、いつ命を吹き込まれ、どこで何を学び、日々のコミュニケーションを行っているのか」「人前で静止するのは強制プログラムなのか、彼らの自由意志による行動なのか」「なぜ彼らは勝手に逃げ出して野生化しないのか」。フォーキーという新しいおもちゃに世話を焼きながら、ウッディは、眩しさすらあった『3』の結末の本当の意味に気づき始めるのだ。

 

『3』のエンディングが光であるならば、『4』はその闇にフォーカスした作品と言える。シリーズがずっと「子どものため」という寓話性で隠してきた欺瞞。『3』の結末が持っていた「問題の先延ばし」という側面。『4』でいきなり登場したかのように思える数々の要素は、実は、過去作という清流の底で静かに沈殿していたそれなのである。

 

よって、確かに構造としては正真正銘の『トイ・ストーリー』なのだ。見方によっては、「ついにそこに切り込んだか!」「シリーズ最大の暗部に突っ込んだ!」という賛辞すら送ることができる。他方で、「そこは見て見ないふりをするのがお決まりだったのでは」「それを取り上げてしまうとシリーズ全体の寓話性が薄れるのでは」という拒否反応も、当然のように起きる。

 

後者でいくと、そこに確かにあったのは、作り手と受け手の共犯意識だ。「ここは見ないことにしましょうね」と、日本公開1996年のあの日から築かれてきた、信頼とニアイコールな共犯意識。『3』においても同様だ。「このエンディングはもしかしたら問題の先延ばしかもしれないけれど、しかし、アンディという特別な存在との関係においては、ハッピーエンドだよね」。あるかもしれない「ハッピーエンドの先」を、作り手と受け手は一緒に見なかったことにした。

 

ピクサーと、世界中のファンが、一緒に「見なかった」ことにした、そんないくつかの約束事。最新作『4』は、それを作り手が一方的に破ってきたのである。

 

だからこそ、私のように戸惑う観客が出てくる。作品構造としては確かに『トイ・ストーリー』だし、そこに込められたメッセージも、価値観の変化を反映したすこぶる現代的なものだ。しかし同時に湧き上がる、わざわざ『トイ・ストーリー』でこれをやる必要があったのか、という憤り。我々が一緒に築き上げてきた共犯意識や、愛すべき欺瞞を、全て白日の下に晒してしまって良いのか。その矛盾。二律背反。これこそが、『トイ・ストーリー4』最大の難所である。

 

スポンサーリンク

 

 

 

そんな物語の最後に下されるウッディの選択は、言うなれば「解脱」だ。彼は持ち主であるボニーの元を離れ、心の声に従い、自由に生きることを決断する。

 

永遠とも思える、煩悩と苦しみのループ。そこから脱することで、自由の境地に達する。ウッディからボニーへ、そしてその次の世代へ受け継がれるかもしれない、おもちゃたちが逃れられない「輪廻」。ウッディは、シリーズが持っていた寓話性にフタをし、欺瞞に正面から向き合うことで、そこから「解脱」していったのである。「子どもの側にいる」というテーマに、『2』で解釈を、『3』で妥協を、そして『4』で脱出を果たす。ウッディへの、完全なる救済。こうして挙げてみると、ひどく綺麗な、ここしかない着地にすら感じられる。

 

しかし、だからこその哀しさ。憤り。シリーズが遂に「そこ」を追求する意義を理解しつつ、「そこ」に触れないのが約束事だったのではないか、という、どうしても消え去らない鬱屈した感情。

 

もういっそ、嘘は嘘のまま、欺瞞は欺瞞のまま、葬ってくれて良かったのではないか。共犯意識を保ったまま、ゆっくりと沈んだままで、それで良かったのではないか。そういう想いが込み上げると同時に、大好きなはずのシリーズにこんな感情を抱く自分が嫌になる。この堂々巡り。なんと罪作りな一作だろう。

 

どれだけ理解を試みても、どれだけ構造面での理屈を積み上げても、「それはどうしても『トイ・ストーリー』でやらなきゃいけなかったのか」という一点だけが崩せない。心の中で泣きながら、それでも、前に進むしかないのだろうか。「古い価値観だとしても、そのままひっそりと沈んでいてくれ」という願いは、やはり傲慢なのだろうか。

 

どう足掻いたところで、公式が「こう」と言えば、「こう」なのだ。欺瞞にスポットを当てる判断も、共犯意識を破る正義も、公式だけが持っている。「勝手に期待して勝手に裏切られる」という耳の痛い声にさいなまれながら、私は、今日も今日とてネットの海を漂い、本作の感想を拾い続けるのだ。

 

トイ・ストーリー4 リモートコントロールビークル デューク・カブーン

トイ・ストーリー4 リモートコントロールビークル デューク・カブーン