ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

「映画館が遠ければホームシアターを作ればいいじゃない」

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何の気なしに過去のブログ記事を再掲してツイートしたものが盛大にバズってしまったのが、先月末の話。

 

 

要は「映画館で映画を観るのが趣味なのだけど、片道2時間かかってしまうのが辛い」という話で、それ自体はもうどうしようもないので、都会へのルサンチマンを抱きながら黙々と車のエンジンを吹かす他にない。むしろ興味深かったのは、このツイートに返ってきた様々な反応である。リプライもそうだし、引用リツイートも、リツイートされた先でも、多くの声を目にすることができた。

 

その中でとても多かったのが、「映画館が遠いのならば、ホームシアターを作れば良いのでは?」という意見。あと同じくらい、「Netflixを活用すれば?」というのもあった。初見では黒崎一護ばりの「嘘・・・ だろ・・・」というリアクションだったのだけど、噛み締めていくと、中々どうして掘り甲斐のある話だな、と。

 

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まずもって、先の記事にも「映画を映画館で観るのが好き」「映画は映画館でフルパフォーマンスを発揮できるように設計されていると思うので、極力映画館で観たい」ということはすでに書いていて、それを読んでいただけた方は、ホームシアターやNetflixという代替案が根本的にすれ違っていることはお分かりいただけるだろう。もちろん、一言一句漏らさず読んでくれなんて傲慢なことを言うつもりはないし、それを求めることもしないが、一応、それが読み取れるようには書いたつもりだ。

 

実生活でもたまに説明を求められる時があるのだけど、そもそも、ホームシアターは映画館の代替には全くなり得ない。画面のサイズも、音響も、何もかも劣る。遮音性のハードルも高すぎる。ここを同水準で作り込める人はそうそういないだろう。どれだけ頑張っても、映画館に比べたら残念な仕上がりにしかならないし、それを分かった上で凝るのがホームシアターだと思っている。

 

言うまでもなく、我が家にもホームシアターはある。自室にプロジェクターを置いているし、80型のスクリーンも取り付けている。それでも、映画館には全く及ばない。もはや代替案でも互換でもなく、全く別物の視聴環境、とすら言えるだろう。「自分の家にスクリーンがある」という浪漫に、価値が全振りされているのだ。

 

というか、何より、ホームシアターは新作映画を公開してくれない。当たり前すぎる話だが、自宅にロードショーはやってこないのである。どうしようもなく、これが一番痛い。数年前に海の向こうから届いた制作発表の報に胸を躍らせ、監督やキャストの決定に一喜一憂し、国内でも宣伝が始まり、本国で先んじて公開された反応を眺め、試写会組を羨みながら、やっと、やっと、やっとの思いで公開日に映画館に辿り着く。この現象が楽しいのである。だから、片道2時間かかろうが、私は映画館に行くのだ。

 

よって、ホームシアターも、Netflixも、私の場合は代替案として全く機能しないことがお分かりいただけるだろう。随分とダラダラと書いてしまったが・・・。

 

しかし、私が興味深く感じているのは、「ホームシアターがあれば良いのでは?」という投げかけをされた方は、何も悪意があってそういうことをしている訳ではない、ということだ。むしろ逆で、ひたすらに田舎道を駆ける自分への、「ホームシアターがあれば救済されるのでは?」という慈しみこそがそこにある。善意寄りのリアクションなのだ。

 

私はこういう例をよく「話のレイヤー(層)が違う」と言っている。同じ話題でも、互いが属するレイヤーが異なっていた場合、哀しいほどに話がすれ違う。不幸な事故である。

 

レイヤーの違いによる衝突というか、やるせない感情は、ネットだとよく発生してしまう。例えば実写映画の話をする時にすぐ『デビルマン』を持ち出してくる人とか、『仮面ライダー剣』の話題で間髪入れずオンドゥル語ネタを放り込んでくる人とか、そういうパターンである。確かにそれは、共通するレイヤーにいる人同士なら盛り上がるネタかもしれないが、違う層の人にとっては冷笑ものですらある。または、自分が考えもしなかった解釈や関係性をそこに見出している人と出会う時もある。同じジャンル、同じ作品の話なのに、決定的にすれ違ってしまうのだ。

 

よく「○○クラスタ」「○○界隈」などとファンをジャンルで分類する傾向があるが、どちらかというと、レイヤーで分類する方が平和だよな、と感じることが多い。その「○○」内で無益な争いが起きることも少なくないが、その多くが、レイヤーの違いによる衝突なんじゃないかな、と。逆に、自分がほとんど興味のないコンテンツでも、その人がそのコンテンツを愛好する際のレイヤーが何となく(自分に)近いと、自然と興味を持ったりもする。重要なのは、「何が好きか」より「どう好きか」なのかもしれない。

 

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ただこれは私も自省するところで、あまり興味のない話題に何の気なしに言及してしまう時がある。ネットに限らず、仕事や家庭においても。気をつけているつもりなのだが、たまに会話の流れでぽろっとそういう発言をしてしまう時があるのだ。

 

例えば映画に関しては、自分のレイヤーをある程度計れていると自負している。自分はどういう楽しみ方をして、どういうものを好んで、どこのレイヤーに位置しているのか。そりゃあ、趣味として時間をかけてきたので、自ずとそれは自覚できる。他方で、例えば嫁さんの趣味の韓ドラとか、仕事における関連性が薄い部署の話とかは、それの「どこ」に自分のレイヤーがあるのかさっぱり分からない。むしろ、無い可能性すらある。そういう時に、つい的外れな意見を投げてしまい、後から後悔に襲われるのだ。

 

つくづく、大事なのは広くアンテナを張っておくことなのだと、そう痛感する。韓ドラとはどういう文化で何が面白いのか、その部署はどういう問題を抱えて何に達成感を覚えているのか。自分の嗜好するものと同じ時間はかけられないので、同じ水準に立つことは不可能である。しかし、常日頃からコミュニケーションを交わし、前提条件を共有し、そこに想像力を付加することで、擬似的に同じレイヤーに辿り着くことはできるかもしれない。

 

よく漫画で「君の気持ちは分かるよ」「お前なんかに分かってたまるか!」というやり取りがあるけども、自分の価値観に照らし合わせて想像することで、その人が位置しているレイヤーに近づくことは出来ると思っている。そのためにも、日々の何でもなさそうなコミュニケーションの応酬こそが、欠かせないのだろう。

 

話をネット社会に戻すと、これもまた同じ考え方で、普段からTwitterのTLやブログ等で自分のレイヤーを表現しておけば、哀しい事故はいくらか減るのかもしれない。バズったツイートに返ってきてしまうすれ違いの意見は、「普段その人を知らないから」=「その人のレイヤーを推し量れていないから」に過ぎない。だから、バズったツイートに言及するのって、本当はすごく怖いことなのだと思う。その人や、その人が属する界隈のレイヤーを推し量らずに言及するのは、事故の元になる場合すらある。あるいは、世間の平均的な価値観と自分たちが属する界隈のレイヤー、その距離感を計り間違えると、たちまち炎上にも繋がってしまうのだろう。

 

なんだかすごく普遍的な、当ッッッたり前の話になってしまったが、先のホームシアターの一件を受けてこんなことを考えていた。無限の時間があれば「広く深く」をやれるのかもしれないが、どうしてもそうはなれない。せめて「広く浅く」、そしてそこに柔軟な想像力を伴わせることができる人間に、私はなりたい。日々是精進。

 

水曜日のシネマ(1) (モーニング KC)

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POPEYE(ポパイ) 2019年 7月号 [おもしろい映画、知らない?]

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