ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

あなたが馬鹿にするそれが、私にとっての「生きる意味」なのだ

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「生きる意味」なんてものは、もっとおいそれと、インスタントに、気軽に積み上げて良いものだと、以前よりそう思っている。

 

ネットの大海をさまよっていると、「生きている意味が分からない」「結婚にも子供にも興味がない」「仕事で成し遂げたい目的もない」「このまま社会の歯車で生きて良いのか」「目標も夢もない」という独白と出会うことが多い。確かに、自分もそういうブルーな気持ちと向き合ってしまうシチュエーションがある。仕事が忙しい時期などは特に、精神がすり減っているのか、無駄に将来を憂いてしまったりもする。

 

しかし、そんな時ほど、自分に言い聞かすのだ。「日曜まで待てば、仮面ライダーの最新話が観られるぞ」「来週は待ちに待ったあの映画の公開だぞ」「来月は好きな漫画の最新刊が出るぞ」。大げさでもなんでもなく、私にとってはこれらが「生きる意味」だったりする。

 

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とはいえ。おおよそ、こういった趣味を本気で嗜好すればするほど、馬鹿にしてくる人がいる。付き合いの歴が浅い人と会話をせざるを得ないシチュエーションで、様子を見ながらジャブのように趣味の話を露出していくと、割と早い段階からナチュラルにそれを批難してきたり。「え?映画なんて半年待ったらDVDが出るから家で見れば良くないっすか?映画館とかお金もったいねー」。

 

「映画館で映画を観るのが好き」と目の前の人が話したのに、初手でこういうカウンターを放ってくる人とは、少なくとも私はそれ以上仲良くなれる自信がない。こういう相手には、私が限界田舎から片道2時間かけて映画館に通っていることも、シアターによって異なる音響設備がむしろ楽しいことも、好きな座席位置を確保するためにチケット予約解禁時刻に正座待機しているのも、いくら話しても分かってもらえないのだろう。

 

そうやって、オタク趣味をやっていると、どうにも、ナチュラルに馬鹿にされてしまう瞬間がある。残念なことに、世の中には、びっくりするほど価値観が異なる人が多い。家に引きこもって映画や漫画を楽しむ人は卑屈で、外で仲間と体を動かして汗を流すことこそが美徳なんだと、本気でそう信じて疑っていない人もいる。仕事に生きるのが人生最大のテーマという人もいれば、仕事をサボるテクニックに一家言持ちの人もいる。歳を重ねて色んな人と出逢えば出逢うほど、そのバリエーションの幅広さにびっくりする。

 

話を冒頭に戻すが、「生きる意味」なんてものは、もっと気軽に積み上げて良いものだと、私はそう思っている。もちろん、長期的な「生きる意味」としては、せっかくなら仕事でそれなりの地位に辿り着きたいし、嫁さんとゆっくりと老後を過ごしたいし、娘をしっかりと社会に送り出してあげたい。でもそれは、20年も30年もかけて行うもので、それだけを目標に走り続けるのは、やっぱりちょっとしんどい。

 

もっと小規模で、インスタントな「生きる意味」。オタクをやっていると、それが多いから非常に助かっている。月曜日にはジャンプが発売されるし、週末には新作映画が公開される。CDやBDは週の半ばに発売されるし、日曜になれば仮面ライダーも戦隊も放送される。数ヶ月に一度のサイクルで好きな漫画の単行本が発売されるし、好きなアーティストが新曲を出したりもする。もちろん、毎日こうやってブログを書いて、反応をもらえたり、アクセス数の推移を眺めたりする。オタクな人は各々、こういった細かな「生きる意味」を重ねているのだと、そう思っている。

 

「生きる意味」って、私は、その程度で良いんじゃないかと思うのだ。何も、偉業を成し遂げたり、大いなる目標を持っていたり、そんなものに限らなくても良いのでは、と。要は「幸せの定義」の話なのだ。あなたが馬鹿にする趣味だったり、しょうもないと感じる物事が、私にとっては「幸せ」で、「生きる意味」だったりする。

 

「趣味を持つ」という行為には、「生きる意味の量産化」という利点があるのだと、この歳になって痛感することが多い。それは何も私のようなインドアなオタク趣味に限らず、スポーツが好きな人も、車やバイクが趣味な人も、それを愛好することによって、細かく細かく「生きる意味」を配置することができる。人生という初見殺しのステージにおいて、自らが望むポイントに「生きる意味」を配置できる、その効力は大きい。

 

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なんでいきなりこうもセンチなことを言い出したかというと、先日、『アベンジャーズ / エンドゲーム』という映画を観たからだ。新作が公開される度に細かく「生きる意味」だったシリーズだが、一旦の区切りを迎えたことで、私は「生きる意味」のひとつを失ってしまった。その壮絶な完結に感無量なのだが、同時に、喪失感が凄まじい。

 

「映画を観終えて、生きる意味のひとつを失った。喪失感がすごい」。などと口にすると、ともすれば鼻で笑われてしまうのだろう。「何を大げさな」「馬鹿らしい」「しょせん映画でしょ」と。でも、そんな馬鹿らしいことに、この10年、私は付き合ってきた。同シリーズの新作が公開されるのが楽しみで仕事を頑張れたことは、何度もあった。家に帰ればそのBDが届いていると、気持ちを奮わせながら資格の勉強をしたこともあった。あなたが馬鹿にするかもしれないそれは、どうしようもなく、私の「生きる意味」だった。

 

願わくば、これからも、「生きる意味」を小まめに配置していきたい。また失ったら補充して、意図しながら蒔いて。仕事へのモチベーションは仕事以外でも作れるし、明日への活力は明後日のオタク趣味から引っ張ることもできる。気づけばアラサーで、もう、そんな趣味と自分を切り離すことは、この先現実的ではないだろう。おそらく死ぬギリギリまで、趣味に時間を費やしているのだろう。でも、私にとっては、それ自体に意味がある。誰に何を言われようとも。

 

君が生きる意味 人生を劇的に変えるフランクルの教え

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