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感想『ミスター・ガラス』 奇怪なヒーロー映画が着地した純な結論について

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元より、M・ナイト・シャマラン監督の作品は数えるほどしか観たことがなかったが、TwitterのTLでは程なくして公開される『ミスター・ガラス』への注目度が高まっていた。少し調べてみると、同監督の『アンブレイカブル』『スプリット』と世界観を共有する特異な三部作、ということで、それならばとここ数日で前二作を予習してから臨むことにした。

 

結果としては、大当たりどころか本当に大満足の結果で、『ミスター・ガラス』は今後も定期的に思い返してはその感慨深さに浸る作品になるだろう。私のようなギリギリのタイミングで予習して駆け込んだトーシローがそう思うのだから、2000年公開当時に『アンブレイカブル』を劇場で観た人は、まさかの着地点に感動もひとしおだろう。実に羨ましい。

 

以下、同作のネタバレがありますゆえ、ご注意を。

 

ポスター/スチール写真 アクリルフォトスタンド入り A4 パターン8 ミスター・ガラス 光沢プリント

 

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『アンブレイカブル』は、骨がガラスのように異常に脆い人間が、自身が生まれた価値を見出そうと、不死身の肉体を持つ男と出会う様を描いた作品であった。物語がどこへ向かうのか予測できない不穏な展開が続き、最終的には、まさかの「ヒーロー:オリジン」として着地する。その結論が提示されて初めて、ヒーローやヴィランといった同作の持つ全体像に光が当たるような、非常に奇怪な語り口を持つ作品であった。

 

続く『スプリット』は、多重人格を有する主人公の魅力が印象深いサイコスリラー。誘拐された女子高生の脱出劇で話が進行するかと思いきや、多重人格者が秘める常軌を逸した獣の存在が見え隠れし、児童虐待というテーマをはらんだ予想だにしない方向に物語が転がり出す。結果、傷ついた者同士の相互理解を経て物語は終幕となるが、最後の最後に、実に16年前に公開された『アンブレイカブル』と共通の世界観を持つことが明かされる、という構造だ。

 

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この二作をたった数日で続けて観た私でさえ良い意味のショックがあったのだから、リアルタイムで追っていた人はもっと面白かったのだろう。『スプリット』においては、まさか同じ監督とはいえかなり前の作品をフォローしてくるとは思いもよらないだろうし、多重人格と内に有する獣の存在を「超人的なもの」、つまりは『アンブレイカブル』と同様にスーパーヒーローのジャンルに落とすという語り口は、びっくりするほどにアクロバティックだ。

 

二作とも、着地点が見えないまま進行する物語が、着地して初めて全体像を明らかにするような、そんなサプライズと「構造上のどんでん返し」に満ちた作品であった。監督のセンスや遊び心が実ににくい。

 

そして、続く『ミスター・ガラス』。まさかの同一世界観となった前二作を踏まえて、「不死身の男」「ガラスのように脆い男」「多重人格の男」が一堂に会する夢の完結編。単なる三部作というよりは「世界観共有」の方がニュアンスとして濃いので、やはりこれは「ユニバース」と呼称するべきだろうか。

 

終わってみると、これまた予想していなかった箇所に着地した作品であり、そのあまりのメッセージの純な魅力に、ひどく感動してしまった。今でこそアメコミヒーロー映画は世界のエンターテインメントを席巻しているが、まだサム・ライミ監督版『スパイダーマン』が公開されるよりも前に『アンブレイカブル』というヒーロー作品を撮っていたシャマラン監督。私有地を担保にし、私財を投じて『ミスター・ガラス』の制作にまで辿り着いたとのことで、監督がどうしてもこのテーマを描きたかったと考えると、思わずこみ上げるものがある。まさに苦節の19年。

 

『ミスター・ガラス』が伝えたいメッセージは、「ワンダーを愛そう」とでも言うのか、コミックが持つフィクションの魅力の、更に根っこにあるポイントにフォーカスした、実にシンプルなものであった。

 

劇中で、精神科医によって「実はスーパーヒーローも超人的能力も無い」という洗脳にも近い誘導を受ける3人。しかし彼らは、ミスター・ガラスという「ヴィラン」によって、導かれるままにその力を解放させていく。また一人、また一人と命を失うも、「黒幕」の真の目的により、超人的能力の実在性が全世界に公開されてしまう。「誰もがヒーローになることを許す」。それは、多様性を認めるといった端的な言葉に収まらない、コミックを愛する全人類が持つ「驚き」や「不可思議」への憧れを全力で肯定するものだ。

 

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『アンブレイカブル』当時の2001年のインタビューで、シャマラン監督は以下のように語っている。

 

「アメコミは子供のころから大好きでした。でも、ガレージに3000冊も積み重ねるようなマニアじゃない。アメコミに限らず、神話や伝説、ヒーローものとか、大好きだったんです。だから私はここで、現代の神話を作り出したいと思ったんです」

 

(中略)

 

「自分の居るべき場所、やるべきことを見つけた人はキラキラしていますよね。反対にそうじゃない人は寂しい感じがしてしまう。この映画ではそんなこともテーマにしました。この世で与えられた目的を認識して、自分のいるべき場所を見つけることがいかに大切か、です。これは人生においてとても重要なことですから」

 

アンブレイカブル インタビュー: M・ナイト・シャマラン インタビュー - 映画.com

 

「この世で与えられた目的を認識して、自分のいるべき場所を見つけることがいかに大切か」。この部分は、『ミスター・ガラス』でも前のめりなほどに語られている。超人的な能力に限らず、人は誰しも固有の能力や可能性があり、それをどういったフィールドで生かすか、という選択を毎日のように行っている。不死身の肉体や、怪力、超人的な頭脳がなくても、それでも、各々が自らの居場所を探し続ける。

 

アメコミヒーローたちの日々も構造としてはそれと同じであり、彼らは自らが持つ超人的なパワーの「生きどころ」を探し、苦悩し、奮い、その様がまた実社会の我々の目に「面白さ」として映る。彼らがフィクションの住人だからこそ持つ「驚き」や「不可思議」は、構造的には我々が歩む人生と同じ箱の中にあり、だからこそ、あり得ないと分かっていながらも幻のヒーローを空想したりする。ある日突然、自分も超人的な力に目覚め、新たな居場所に向けて駆け出すのかもしれない。

 

『ミスター・ガラス』のクライマックスは、そういった「フィクションが持つ魅力と可能性」といったものを、我々の足元に転がすような形で進行していく。もしかしたら、街を歩くあの人も、あの人も、あの人も、普通の人間ではないのかもしれない。そのワンダー、ときめき、ワクワクは、コミックをはじめとするフィクションを愛する人々が一番最初に抱く感情なのだ。そういったテーマに、子供の頃からアメコミが好きだった監督が、私財を賭して、それも19年かけて到達した。なんと美しい話だろう。

 

シャマラン監督は、マーベルやDCからのオファーを断っていたらしが、『ミスター・ガラス』の着地点を噛みしめれば噛みしめるほど、その意味が分かるような気がしてくる。彼は、「コミックの世界」を描きたいのではなく、「コミックがもたらしてくれたもの」を描きたかったのかもしれない。だからこそ『ミスター・ガラス』は、作中でコミックの様式美やパターンをメタフィクション的に盛り込みながら、最終的に、その構造から脱していく作劇となっていた。

 

theriver.jp

 

世界は驚きに満ちている。コミックが与えてくれた面白さは、もしかしたらすぐ隣にあるのかもしれない。という本作が持つ愛に溢れた語り口は、そういった嗜好を持つ人間にしか響かない、非常に局所的なテーマとも言えてしまう。これがこの規模で公開された、という事実が、重ねて感慨深い。

 

最後に。作中には世界の均衡を守るために超人能力の実在性を隠蔽してきた組織が登場するが、彼らのトレードマークは三つ葉のクローバーであった。それは言うまでもなく、マジョリティを意味しているのだろう。「持たない」多数派が、「持つ」少数派を狩る。本作においては、そういう構造があった。しかし、(諸説あるようだが)、対するマイノリティである四つ葉のクローバーは、どうやら1/10,000の確率で見つかることがあるようだ。これだけ見れば途方もない数字だが、人口規模で考えてみると、むしろ世界には思っていたより沢山の「超人」がいるのかもしれない。なにせ10,000人にひとりなのだ。

 

・・・などと、荒唐無稽な空想してしまうのだけど、それすら許して肯定してくれるような、実に素敵な作品であった。こういう映画に出会えるからTwitterはやめられない。