何に驚いたかというと、この『キングスマン:ゴールデン・サークル』を観に行った映画館で、観客が私ひとりだったということだ。
正月明け早々に公開された本作だが、仕事が忙しくて中々観に行くことができなかった。やっとこさ暇が出来たのが2月に入ってから。なので、私の住むド田舎の「キングスマンファン」の多くが1月にすでに鑑賞を終えてしまっていたのだろう。
何度確認しても、時に立ち上がって見渡しても、本当に誰もいない。始まって数分しても入ってこない。マジで? マジで? とヒヤヒヤしながらも次第に高まる高揚感。何故かというと、ひとりで映画館を貸し切ってしまったら、やることはひとつだからだ。
そう、ひとり応援上映である。
賃貸に住む身としては、自室にホームシアターを作ったはいいものの、声を上げて楽しむということは許されない。夜遅い時間だとヘッドホンを付けながら鑑賞したりする。なので、声を上げて好き勝手に楽しむというのは、実は貴重な体験なのだ。
眼前のスクリーンで見事なドリフトが決まったあたりで、Whooooooo!!!!!と叫んでみる。そして見渡す。本当に誰もいない。
「やったぜエグジー!!!!!」
「Whoooooooooo!!!」
「ハリー!!!ハリーじゃないか!!!」
「Whoooooooooo!!!」
「やっちまぇぇぇぇぇ!!!!!!」
「Whoooooooooo!!!」
「ィよっしゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
映写室にどの程度人がいるのかはよく知らないが、映画館のスタッフから変人認定されてしまったことは否めないだろう。でも仕方がない。私は映画を楽しむために映画館に来たのだ。それを最大限やれる環境が整ってしまったら、やるしかないのだ。本当に、楽しかった。
そんなこんなで予想外の付加価値があった『キングスマン:ゴールデン・サークル』だが、本作はそれを差し引いても興奮たっぷりの快作に仕上がっていたと思う。
私は実は、前作でどうしても納得のいかないシーンがある。それは、作中でも一番の見せ場であるハリーの長回し風アクション(教会で行われたやつ)が、彼が洗脳され興奮状態にある中で描かれたことだ。つまり、アクションがグロ&爽快なインパクトでテンションを上げてくるのに、ストーリーが「敵の術中に嵌められてるだけじゃん」という方向に落ちてしまうんですよ。
この食い合わせの悪さが、良くも悪くもマシュー・ヴォーン監督だなあ、と。上げるんなら「アゲ」に徹して欲しい、という話だ。
その点、続編となる『ゴールデン・サークル』はその辺りの食い合わせの悪さが減り、必要な上げはちゃんと「アゲ」として、下げの展開は「サゲ」として、適切に寄せられていたと感じた。
これだけで、私としては「素直に楽しめる一作」として満足できた。
ただ、悪趣味スプラッタ要素が前作にも増して「つゆだく」で提供されるため、やはり目を背けたくなるシーンもいくつかあった。ミンチとかね、ほんと、よくもまあやるよあの映像・・・。
とはいえ、だ。「マシュー・ヴォーン監督の悪趣味スプラッタ要素」というのは、「ジョン・ウー監督の鳩」とか「マイケル・ベイ監督の爆発」とか、そういうものに数えられると思っているので、御家芸として受け入れられる自分もいるのだ。しばらくハンバーグは食べられないけどね。
導入として、前代未聞の大ピンチに陥ったキングスマンがアメリカのステイツマンを頼る、というのは面白かった。世界各地にある秘密組織、というだけで無条件にワクワクさせられる。一応スパイ映画として数えられる本作において、大事な高揚感だ。
「シリアスで重い作品が主流になっていたスパイ映画だけど、もっと荒唐無稽でいいじゃない?」という趣旨で前作が構成されていると評したのはライムスター宇多丸氏だが、続編ではその荒唐無稽さに磨きがかかり、近年市場を席捲するヒーロー映画の文法もしっかり取り込みながら、予想以上のパワーアップを遂げていたように思う。
まあ、ハリーの復活は事前に散々宣伝されてきたのに「どや~!生きてたで~!」的な雰囲気で進行していくのはチグハグに感じたし、その後のハリーのリハビリ中なスパイ活動も笑えるというよりいたたまれなくなる気持ちが強かった・・・。
それでも、相変わらず馬鹿アイデアとしか言いようのないスパイ道具が次々と登場する様子には身を乗り出してしまうし、高低感と位置関係がしっかり伝わる整理されたアクションシーンの構図にも舌を巻くばかりだった。
続編があるとかないとか報じられていますが、果たしてどうなるのか。もし続編があったら、エグジー役の人を老けメイクで初老にして、息子とタッグを組んで欲しいですね。アクションにかき消されそうになりますが、『キングスマン』って割とストレートな「親子の物語」なので。