前回の記事(▼)の続きとして、「やっぱ鎧武って面白いな・・・」というやつの2クール編です。良かったらこちらから読んでください。
2クール目は、初瀬が死亡し、ユグドラシル側からヘルヘイムの説明があり、しかしそのユグドラシルも一枚岩でないことが明かされ、紘汰は悩みに悩み、そんな中で裕也の死の真相も紘汰本人が知ることとなり、乗り越えてカチドキアームズになるまで、という大筋。
大きくテーマが2つになっていて、ひとつは「ヘルヘイムとは何か」という謎解き、もうひとつは、「紘汰の戦うスタンスの確立」である。
まず前者として、この作品の最大の特徴である「植物による浸食」という「理由の無い悪意」。
これは「副読本」として優秀な『仮面ライダー鎧武 ザ・ガイド』の虚淵氏インタビューを読むととても面白い。
虚淵氏の仮面ライダー的な恐怖の捉え方が面白いのよね。クウガの「人間の姿をした人間じゃない存在」というアイデアが当時としてはとても現代的な恐怖だったと語りつつ、じゃあ今の子供達に対する恐怖は何かというと、それは「天災」だと。だから、意思のない植物が侵食してくる物語になったのだと。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) October 27, 2017
つまりは、クウガの頃は殺人事件などの「身近な人間(の姿をしたもの)が引き起こす恐怖」が社会的に浸透していた時代で、だからこそ、人間社会に潜り込んでいるグロンギはどこか現実的な恐怖を体現していた、と。
その現代版と言えるのが、虚淵氏の中で地震や津波といった「天災」であり、そこから着想を得た「植物の浸食」という恐怖が、『鎧武』本編で描かれたヘルヘイムの侵略だというのだ。
このあたりのくだりは本当に面白いので、『仮面ライダー鎧武 ザ・ガイド』、本当にオススメの一冊です。
そう考えると、『龍騎』の頃は同時多発テロを受けた「多様化する各々の正義」が一種の恐怖だったのだろう、などと、「その時節に応じた恐怖を描くのが仮面ライダー」という虚淵氏の分析は、非常に興味深いものである。
また、植物というのは本当に「理由が無い」というか、もちろん喋る訳ではないので、とっても不気味だ。
ヘルヘイム自体は種の本能に従って種をまき散らすだけなので、そこに意図的なものも、他の思惑も、介在しない。黙々と、あの果実を使って繁栄していくのみである。(後にサガラの思惑が増長していったり強制進化促進プログラムだったりといった展開もあるのだが、それはそれとして・・・)
植物の浸食による恐怖という展開で、このドイツで製作されたショートフィルムが興味深いので、補足としてご紹介。
まさにヘルヘイム・・・。
あと、同じく虚淵氏が脚本をつとめる『怪獣惑星』のゴジラも植物の遺伝子を取り込んだ進化系とのことで、このあたりの符合も非常に興味深いなあ、と。
植物は確かに、ある意味の最強なのだ。
まあ、今だからぶっちゃけ言えることではあるのだけど、「意思の無い植物の浸食」を軸に、それ自体に「悪意が無い」から、「明確な敵が不在」で、だからこそ利用する者・勝ち馬に乗ろうとする者・翻弄される者の群像劇を描くテーマだとするならば、サガラのやることって結構「意思がある」ことなんですよね。
ここにちょっと食い合わせの悪さがあったのかな、というのは放送当時から思っていて。
サガラ自体はヘルヘイムそのものとして生態系の進化を促す存在だったのだから、その火付け役として紘汰に度々パワーアップアイテムを斡旋したのは分かるのだけど、だとすると「理由の無い悪意」という観点から少しズレてしまうのかな、と。
まあ、そういう我々常人の感覚を完全に超越した域で動いているのがヘルヘイムなので、「侵略の意図」そのものは無い、という話だと理解はしているけども。
この辺りはオーバーロードの存在も少し煙幕になっていて。彼らは決してヘルヘイムそのものではなく、「生き残って別の進化を遂げた者たち」とはいえ。
あの森自体が種の習性に則って黙々と繁殖する、それ自体が「理由の無い悪意」という持って行き方だったので、あの森を介しての知的な存在は、全く出てこない方がテーマ的にストレートだったのかも、と・・・。
とはいえ、オーバーロードやサガラといった人間より高い次元の存在と相対して、彼らに一泡吹かせていくことに後半戦の面白さがあると思うので、ほんの少しの引っ掛かりの域は出ない話です、はい。
話を戻して、ヘルヘイムの浸食について。
仮面ライダーの敵はショッカーで、平成ライダーでもグロンギを始め特定の種族や組織が敵として登場するのだけど、『鎧武』のインベスはそれらには該当しない。
一番近いのは『龍騎』のミラーモンスターで、あくまで敵としての怪人が出てくるのではなく、その怪人が存在する世界で価値観をぶつけ合うライダーたち自体が、主役であり敵でもある、というやり方。
『龍騎』はここに「勝ち残った者が願いを叶えられる」というゲームの景品のようなゴールを設定していたけれど、『鎧武』はそれすらもなく、「ヘルヘイムの侵略によって露呈していく世の中の理不尽さと戦う」という、何とも斜め上に突っ込んだ「敵」が登場する。
カチドキアームズ登場回。紘汰のモヤモヤは、夢のように現れたサガラによって次第に言語化されていく。
このくだりは、紘汰も心のどこかでユグドラシルを全否定し切れないところが肝だと思うのだ。
やり方やスタンスが紘汰的に納得いかない訳で、「人類を救うために長年研究を重ねて方法を確立させた」こと、それそのものについては、おそらく彼も批難はしないだろう。
結局は、「人類全員を救うことを最初から諦める」という判断、そして、そのために「人為的に戦争等を起こして総人口を削減する予定がある」という非道すぎる考え方。紘汰は、そこに怒っている。
でも、彼らが「人類を救うために動いている」ことは紛れもない真実であり、だからこそ葛藤が生まれる。
そこで悩み、しかも自らも裕也という命を犠牲にしていたことを突き付けられた紘汰だったが、そこをサガラが諭す訳である。「あいつらは弱いからああいう方法を取るんだ」、と。
しかも、オーバーロードの存在を秘匿しているというプロフェッサーたちの思惑を聞かされ、ユグドラシルが「人類を救うために動いている」という前提条件も崩れ去る。
そうして、何と戦う訳でもない、誰を倒す訳でもない、言うなれば「ユグドラシル側を一発殴りに行く」ために単身乗り込み、大立ち回りを演じることになる。
この流れは非常に「鎧武的」というか、明確な中ボスもおらず、敵自体も個々の思惑で動いていて一枚岩でない中で、主人公が「理不尽な現状に拳を振り上げる」という一旦の決着をみせる一幕は、中々に挑戦的だ。
ユグドラシル側の「人類全員を救えないのなら切り捨てる」という発想は、私も「大人」のひとりとして、「正しい」とは思う。
だって、全滅と、一部が生き残るのと、その二択の話なのだ。
・・・などという理屈を頭では分かっていても、当然、そこに抵抗感は強く生まれるだろう。
ただ、『グレンラガン』というアニメの第3部で、ロシウというキャラクターが外敵の恐怖の前に同じような「犠牲を伴う大人の決断」をするくだりがあるのだけど、私は、誰も彼を責めることはできないよな、とも思う訳で。
だからこそ、貴虎も初瀬のことをフルネームで覚えているのだ。彼は犠牲者をひとつの礎として、尊重していたのだから。
結局、日常生活でそんな人類の命運には遭遇しないけれども、従業員とその家族がいても営業成績の悪い営業所は閉鎖されるし、お客さんの立場で考えればあまりにも酷なことでもお金をしっかり回収しなければならない場面もあるし、「全体・組織のために個が犠牲になる」シチュエーションというのは、私自身も働きながら大なり小なり毎日のように遭遇する。
それが良いとか悪いとか、そういう話ではなく、「大人」はそういうシチュエーションにある程度慣れてしまうし、「非情な判断」も、「諦め」も、「物わかりの良さ」も、スキルとして当然のように身に着けていく。
そんな「大人」からしたら、具体的な代替案も出さずにただ怒りで拳をぶつけてくる紘汰のような存在は本当に「うざったい」し、そういう意味で彼はやっぱり「子供」だと言えるだろう。
ただし、果たして、そういった「物わかりの良さ」を身に着けて、ハイ!大人になりましたね!、と成長したことにして、それで本当に良いのだろうか。理屈が追い付いてなくても、それでも自分の信念を貫き通すことの「良さ」は、本当に捨ててしまっても良いのか。
「子供から大人に変身する」とは、果たしてどのようにあるべきなのか。
・・・というのが『鎧武』の最終的なテーマであり、問いかけでもあり、そしてこれは、ユグドラシルやヘルヘイムの背景、それを取り巻く大人たちの思惑が判明する、この第2クール目で大きく提示されたものだったなあ、と。改めて鑑賞して、そう感じた。
冒頭で「紘汰の戦うスタンスの確立」と書いたが、このスタンスの確立も、サガラに煽られた上に出来上がった非常に子供じみた怒りの域を出ないのである。(オーバーロードとの交渉という道も、この時点ではあまりに不透明な話だ)
でも、だからこそ、この青臭さが貴虎には憎らしくて、この上なく眩しい。
後にミッチが「希望は伝染する」と語るシーンに繋がっていくが、紘汰のこの子供じみた青臭い熱さに、次第に貴虎は感化されていくのである。(だからこそ、後に決定的に裏切られてしまう・・・)
2クール目は、「設定面での真相バラし」と「浮き彫りになるテーマの提示」が同時に行われるゾクゾク感が肝であり、しかも出てくる新世代ライダーやジンバー・カチドキといった新アームズもことごとく魅力的という、まさに見所だらけであった。
ユグドラシル側のように思惑と葛藤が渦巻く大人たちもいれば、ブラーボのように大人気なさすぎる大人も引き続き賑やかしに参加し、その中で、子供たち(ビートライダーズ)のダンスバトルが終結していくのも面白い。
「子供」と「大人」、その境界線が提示されたその次の話として、高次元の存在・オーバーロードが更に戦況を複雑化させていくのである・・・。続きは、第3クールの感想記事にて。
あと、ジンバーレモンになる時のご丁寧にフェイスプレートが外れる描写、バンダイの人が大喜びだったみたいですね。あれ何度観てもめっちゃ面白い。
「ひなわだいだいでぃいじぇいじゅう」というネーミングセンス、一体どれだけ徹夜したら身につくのだろうか・・・。
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