いつも拝読しているブログのこちらの記事を読みました。
例の中高生の読解力不足の報道が事の発端となる話題。
全編面白かったのですが、特に「ふむふむ」と読んでいたのがこちらの部分。
というわけで、厳密にいえば「何も考えていない」ではなく「思考する」ところに至っていないというのが正しい。この辺の理解が教育行政を司る人たちに進まない限り、現在生まれている教育格差とか教育の詰め込みとか発達障害の療育とかそういった諸問題は解決しないと思う。「10個を2人で分けたら何個ずつになるでしょう」はわかっても「10cmを半分にしたら何cmでしょう」ができない。ここまでくると向き合う側に根気と忍耐が絶対必要になってくるし、その前に周囲の理解が得られないのが一番悲しいことだと思う。
「読解力がない」を「文章を読み解くスキルがない」と読み替えて、「じゃあどうすればスキルを養えるのか」というのが、この一連の話題に共通する課題だと思うのだけど、こちら文章にもあるように、問題はもっと手前にあるのかもしれない。
つまりは、「厳密にいえば「何も考えていない」ではなく「思考する」ところに至っていない」という前述の引用部分。
「文章を読み解くスキル」云々ではなく、そもそも「読み解こうとしない」「思考が読み解くという段階にまで至らない」という可能性。
以下、昨晩自分で呟いたTwitterの内容。
「文章を読んでも思考に至らない」というのは、解釈違いとか曲解とかとはまた別の話で、その文章を「読む」のではなく「見る」で終わってるんだと思う。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
まあ、これは自分も反省するところで、最近「読む」はともかく「書く」ことが極端に減って、漢字を読めても書けないシチュエーションが多くなってきた。自信がなくてすぐスマホで変換したりしてしまう。これじゃいかんよなあ、と思いつつも、ペンを握って書くという場面が生活の中で少なすぎる。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
今の小・中学生も、毎日の勉強以外だとスマホで文字入力が済んでしまうし、LINEにTwitterにインスタと短い文章を目にする機会だけが極端に多すぎる。そうすると、「長文を読む能力が養われない」というより、「短文を感覚で把握する能力だけが高まっていく」のかもしれない。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
だから、ある程度の長文を長文と認識する前にエラーを起こしてしまうというか、高められた「短文理解力」(?)により字面や雰囲気だけで浅く何となく汲み取ってしまう行為がスッと先行してしまい、そこで終わってしまうため、自動的に「読む」に辿り着かないのかもしれない。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
だから、「長文読解力を養う」という方向ではなく、「短文特化にならないようにする」というアプローチの方が、実は現実的なのではないか、などとぼんやり思ったり。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
先人の「本を読め」というアドバイスは、自分の生活では味わえない体験や知見を得ることができたり、知らない単語や表現と出会えたりすることを指していたと思うが、最近だと「LINEやTwitterといった短文ばかりに慣れてしまうな」という意味で「本を読め」なのかもしれない。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
「読み解こうとしない」「思考が読み解くという段階にまで至らない」というのは、正確には「日常生活で養ってしまった<短文を理解する能力>が自動的に先行してしまう」ということで、「長文読解に至らない」というのはその結果に過ぎないのではないか、という仮説。
<短文を理解する能力>というと、どうにもざっくりしすぎているが、それについての補足のようなものが、以下。
これは自分の英語に相当するところで、自分は英語が得意ではないのだけど、英語の長文を読む際につい「知っている単語の意味を繋げて何となく日本語の文章っぽく脳内で仕上げる」という行為をやってしまう。これは、往々にして間違う。実際には文章を「読んで」いないから。本当に恥ずかしい話だけど。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
この「文章そのものを読まずにいくつかの単語だけを何となく繋げて脳内で勝手に文章にする」という方法は、英語を読むことに単純に慣れていない(トレーニングを積んでいない)から養われてしまったもので、実はこれが母国語である国語で起こってしまっているのが、「読めない」の正体なのではないか。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
たとえ日本語でも、長文を読む機会が極端に少ないから、必然として長文を「読む」ことができず、かといってその言語が全く分からない訳ではないので、長文のあちこちにある何となく知っていそうな単語や慣用句を、字面や雰囲気だけ拾って脳内で切ったり貼ったりして、その浅い理解で終わってしまう。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
本当に恥ずかしい話で、英語ほど自分の中で「中途半端に学んでしまった」ものは無いと思っている。
だから、先に書いたように、文法とかほとんど分からなくて、知っている・見たことがある単語や文型から何となく情報を拾い上げて頭の中で連結させて文章にしてしまう、という愚行が、驚くべきことに無意識に先行してしまう。
「テニス」「遊ぶ」「私」という単語があったとして、勝手に「私はテニスで遊ぶ」という訳をしてしまう、という感じ。本当は「私はテニスに遊ばれていた」かもしれないのに。(あくまで例です)
つまりは、前述の<短文を理解する能力>は、この「中途半端に知っている状態」とニアイコールなのではないか、という話。
長文を読むほどに「慣れて」いないけど、でも知らない言語ではない。
だから、字面の雰囲気や知っている単語だけを何となく連結させて、「おそらくこういう意味だろう」という理解をして、実質的な「読解」にまで至らない。
Twitterで万単位でRTされたツイートにぶら下がっているリプライ欄には、こういう手順で生成されたようなツイートが沢山ぶら下がっている。
じゃあ、その<短文を理解する能力>だけが脳内を支配することを避けるために、何をどうすれば良いのか、というのが次の話。
娘に対して試験的にやってみようと思ってるのが、ジブリなりディズニーなりピクサーなり、本人が気に入った映画のノベライズ版を読ませる、というやつ。映像で行われていることがどのように文字になっているのか、という視点を持ってくれたらな、と。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
映像ではバズのヘルメットが閉まるシーンが、ノベライズでは「プシュッと音を立ててバズの顔がまたヘルメットに覆われた。月明かりが写り込んでいる」とか書かれているかもしれなくて、これって結構(本人には)無意識のトレーニングになるんじゃないかなあ、と。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
また、ノベライズ版って細分の展開が違うことも多くて、それに対して「これは違うと思う。だってこれだとあそこがああならない」みたいな思考を持つのも、非常に意味のあることだと思うのよね。
— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年9月27日
つまりは、これに対する・・・
こういうやつ。
メディアの違いでどういう表現がイコールとされているのか、というやつ。
「長文を読む」とか以前に、思考的に「見る」を脱する練習をさせてあげられたらな、と。
面白いと思うのだけど、果たしてどうかな。
とはいえまずは、私自身ももっと本を読まなくてはならないな、と痛感しつつ、終わりにしておきます。