今年もこの時期がやってきました、平成仮面ライダーの最終回。
『クウガ』からずっとリアルタイムで観ているが、いつからか番組終了時期も変わり、今年は例年より1ヶ月速い幕引きのタイミングだったが、やはり終わってみるとしみじみしてしまう。
平成仮面ライダーシリーズ第18作、『仮面ライダーエグゼイド』。
大森プロデューサーが以前担当された『ドライブ』と同じように、実際の職業をモチーフとして、今回は「医者」が採択されている。
同シリーズで職業物というと『ダブル』の探偵が印象深い。「探偵ドラマ」の楽しさと「仮面ライダー」の面白さが上手く融合された作品だったと感じている。
『エグゼイド』も、「医療ドラマ」の魅力と「仮面ライダー」の面白さを混ぜ合わせ、それを「ゲーム」というエッセンスでパッケージした作品であった。
だから、ゲーム要素はあくまで見栄えやギミック、言葉選びの面で用いられ、本筋は医療ドラマに軸足を置いていた印象が強い。
あのガシャットという見たこともない代物を「ゲームソフトです!」と言い切る強引さはご愛嬌だが、つまりはゲーム要素と医療ドラマという「誰の目にも食い合わせの悪そうな組み合わせ」こそが、『エグゼイド』のひとつの狙いだったのだと感じている。
「ゲームをやりすぎると命の大切さが分からなくなる!」とは古くから使われているゲーム批判の常套句だが、そんなゲームがまさかの医療ドラマと合体し、子供向けコンテンツとして第一線にある仮面ライダーで1年間描かれるなんて、時代も移り変わったなあ・・・ と感慨深いものがある。
医療ドラマとして、「怪人を倒すことが医療行為(オペ)である」という理屈を持ち込み、これまでの仮面ライダー同様に「怪人を倒すことが人助けになる」という構図を作り出した。
「怪人が人に憑く」という方法論は、古くは『電王』が打ち立てた偉大な要素である。(『電王』が「古い」だなんて自分で書きながら目眩がしそうだ)
これにより、「一般人ゲストのお悩み解決ドラマ」と「怪人討伐の仮面ライダー」を見事に融合させることが出来る訳で、その後の同シリーズでも応用されながら用いられてきた方法論といえる。
『エグゼイド』も順当にそれを採択し、一般人ゲストのドラマをこなしながら人助けをする仮面ライダーとしてスタートした、かに、思われた。
いざ始まってみると、思っていたよりもはるかに「縦軸」が太い作品であり、一般人ドラマは確かにこなすのだが、それに大きく尺を割かないという挑戦的な作りが見られた。
これら『エグゼイド』のドラマの作り方についてはは、以下の記事で長々と書いたので、こちらを引用したい。
そんな『鎧武』が「1年間走り切れた」という実績、また、年間プロットをしっかり整備して部分的に逆算して謎を蒔いていく造り方は、私は確実に『エグゼイド』に引き継がれていると見ている。主義主張の違いで争い合う仮面ライダーたちと、その影でうごめく巨大な陰謀。
そして、更にはここに「平成ライダー要素のハイブリッド構成」を感じられるから面白いのだ。例えば、スマートブレインやボードやユグドラシルのような立ち位置のゲンムコーポレーション、そして前作『ゴースト』が1クール目で目指した「1話完結と縦軸連続ドラマの同時進行」。“一期”でよく見られたライダー同士のすれ違いや仲違いに、それと同時に描かれる“二期”の代表的要素と言える驚異的な新アイテム登場ラッシュ(ノルマクリア)。前述した「2話前後編ゲストお悩み相談手法」は一見「1話完結と縦軸連続ドラマの同時進行」と矛盾するようにも思えるが、「ライダーたちのストーリーを1話単位で完結させる一方で患者のドラマだけを2話前後編でクリアする」という離れ業。
(中略)
つまり、これまでの平成ライダーが確立or挑戦してきた様々な要素をパズルのように組み合わせた「ハイブリッドな魅力」という印象が、非常に強いのだ。「これは『〇〇(クウガ~ゴースト)』っぽい」とついつい言いたくなる要素が散りばめられており、しかし断じて「寄せ集めの継ぎ接ぎだ」と感じる訳でもない。とにかく、足し算・掛け算、そして引き算が上手いなあ、という感嘆の声を漏らしてしまう。
ここにも書いたように、『エグゼイド』は非常にハイブリッドな作品だったと、終わった今でもそう思う。
平成仮面ライダーの作劇の変遷は多岐にわたっていて、『クウガ』から始まったリアル調のドラマが仮面ライダー同士の戦いに移り変わり、紆余曲折を経て『電王』でよりアニメ的な作劇を持ち込んでひとつのフォーマットが確立。『ダブル』以降はより分かりやすく明朗なドラマと販促要素の物量戦に挑み、『鎧武』という平成一期を描き直すようなカウンターを経て、そうして巡り巡ってきた、という歴史がある。
『エグゼイド』は、『ダブル』以降のいわゆる「二期らしさ」に軸足を置きながら、その全てをハイブリッドに組み合わせてよりイベント性を高めた作り方となっており、私は、そんな『エグゼイド』という作品に新鮮さを覚えるばかりだった。
つまり端的にいうと、「『鎧武』の発展形」なのだ。
『鎧武』は、「あの頃の平成ライダーをもう一度やってみよう」という趣旨で組み上げられた作品であり、過去作への目配せやオマージュがふんだんに盛り込まれた物語でもあった。
しかし、今やコンテンツとして肥大化した平成ライダーシリーズで「あの頃」をやるのはそう簡単ではなく、それにより生じた歪な形や斜め上に吹く風が独特の味を生むという、何とも特異な仕上がりになったと感じている。
『エグゼイド』は、『ダブル』の探偵ドラマや『ドライブ』の刑事ドラマと同じような「医療ドラマ」の中に、『鎧武』が目指した「一期らしさへの回帰」をより年間フォーマットとして再考して落とし込んだような作品であり、『鎧武』の反省点を潰しつつ良かった点をより伸ばすような性格があった。
そしてその『鎧武』こそが「一期の頃の殺伐とした雰囲気&ミステリー的な縦軸の物語を復刻させよう」という趣旨を持っていたので、自ずと、『エグゼイド』にもその要素が受け継がれている、という訳だ。
結果として、『クウガ』から『ゴースト』までの平成ライダーが試行錯誤・紆余曲折しながら挑んできたいくつもの「お話の作り方・組み立て方」をハイブリッドに組み合わせ、しかし大前提として「二期」の明朗な作風が存在し続けるという、「新しくもあり、懐かしくもあり」という独特な形として仕上がった。
『鎧武』は、平成一期の頃にあったライブ感を再演することにこそ目的があった作品だ。
平成ライダーで「ライブ感」といえば言わずもがな白倉プロデューサーの十八番(と言っていいのか?)な訳だが、その「ライブ感」は文字通り、現場で偶発的に生まれた熱や一年間やるからこそ形成された盛り上がりをフレキシブルに取り込んで、番組製作に即断で活かしていく、といった諸々の事情を指している。
だから、「平成ライダーは年間のロードマップをろくに決めずに作っていて、鎧武のメインライターである虚淵氏がそれを知った時はとても驚いた」という逸話が残っているくらいだ。
『鎧武』がライブ感の再演を目指して走り抜けた結果、積もり積もったいくつものノウハウ。
『エグゼイド』はそれらをひとつひとつ再考し、「ライブ感」を支配下に置いていたような趣もあった。
もはや計画性があっては言葉の意味で「ライブ感」とは言えないのだけど、その「ライブ感」を年間スケジュールの中で怒涛にこなしていくのは、何とも「新しい」やり方であったし、『鎧武』をよりニチアサ帯向けにチューンした作品と捉えると、私の中ではスッと馴染んでいく感覚がある。
「冬映画で2クール目の秘密を先行して描こう」「番組放送終了と夏映画の時期が被るので、エピローグを丸々夏映画でやってしまう」「Vシネマには最初から三部作という冠を持たせよう」等々。
そういった、サプライズの側面を持つ「ライブ感」を計画性をもって演出している感じが如実に伝わってきて、それもまた本作の魅力的な要素であった。(例えば『龍騎』の最終回先行映画化という謳い文句や『ファイズ』の巧の正体を映画で先に描く、『電王』が夏映画とテレビ本編を完全に混ぜ合わせるなど、そういった過去のシリーズでピンポイントで用いられてきたびっくり箱的な要素をロードマップに最初から落とし込んでいる、という印象)
計画性をもって「ライブ感」を走らせる。「人工ライブ感」とでも言えるかもしれない『エグゼイド』の物語は、常に盛り上がりがあり、常にびっくり箱が閉じたり開いたりするという、まさにエキサイトな事態の連続であった。
一期のような「縦軸が太い群像劇」は瞬間最大風速に向かうまでの「溜め」の物語がどうしても不可欠だが、『エグゼイド』はここを非常に割り切って構築している。
怒涛の勢いでイベントを食い気味に詰めて展開させることで、毎話ごとに一度(ないし二度以上の)瞬間最大風速が訪れるというやり方だ。
これにより、体感として「まだ8:10!??」「まだ十数話でこのクライマックス感?」「毎回最終回みたいな盛り上がりでは?」という戸惑いを視聴者に与え、その戸惑いが興奮に変換されグイグイと牽引していく、というスタイルを取っている。
一方で、このやり方のどこが「割り切っている」かというと、盛り上がり優先で端々の整合性や理屈付けを細かく説明しないこと(または説明のタイミングを遅らせること)、そして、登場人物の背景描写をバッサリ切り捨てていることが挙げられる。
過去ここまで日常生活が描かれなかった平成ライダーの主人公もいなかったのではないだろうか・・・ というくらいに、あくまで彼らのドクターとしての職業人の部分のみにフォーカスを当てることで、個々人の職業倫理感を使って個を描く方向性を貫いている。
だから、登場人物の感情の機微が部分部分で分かり辛かったり、唐突に感じることも少なくない。
また、俗に言われる「後だしジャンケン」や「ご都合主義」もいくつか見られ、リプログラミングのシナリオ上悪い意味で万能すぎる感じや、2本目の爆走バイクガシャットの出どころ、終盤で黎斗が持っていたプロトマイティガシャット(リセット後正宗の手元に戻っているカットがある)等々、よくよく立ち止まって考えると「ん?」となる部分は少なくない。というより、割と多い。
それらをファンの好意的な解釈に丸投げしたり、「ライブ感」の中に薄めてしまったり、といったやり方を割と意図的にやっているきらいもあって、私はその割り切りがむしろ面白いなあ、と感じて観ていた。
というのも、まさに「人工ライブ感」というやつがそれで、これまでのシリーズではその「割り切り」が結果として露見した過失のような感じだったのが、『エグゼイド』では最初から分かっていてそうしている匂いがあり、そこが私には新鮮に感じられたのだ。
瞬間最大風速を重視し、視聴者が「あれ?」を考える暇を与えずに、圧倒的な風速で注意をそちらに惹き付ける。
そうして描かれるイベントが毎回ショッキングでドラマチックなので、終わってみれば「細かな気になる点」よりも「イベントの持つ熱」が上回り、結果、いわゆる「読了感」が「良かった!!!」に支配される。
なんとも意地の悪い計算高さというか、狡猾とでもいうか・・・。
例えば最終回。クロノスがポーズした時の中に永夢が入門し、クロノスに拳の一撃を喰らわせ、逆転のきっかけになるくだりがある。
これ、改めて振り返ると、「なぜ永夢が止まった時の中で動けたか」は最後まで詳細に説明されない。
戦いながらの「パラドがウイルスを抑制したからだ!」や、ラストの黎斗の「なぜエグゼイドに変身できたのか!」等の説明があり、パラドが生存していること、永夢に再感染していることが明かされ、結果として、「パラドが消滅時にゲムデウスの因子と混じって、その状態で永夢に再感染して、尚且つクロノスはウイルスが抑制されて(弱って)いるので、永夢は止まった時の中で動けたのかな?」と、いう、推察はできる。
それは文字通りファンの好意的な推察の域を出ないが、「紆余曲折あった4人が最終決戦で共闘」「OPをバックに戦う」「第1話アバンやOP映像の再現」といったイベント性の高さや牽引力の前に、「あれ?」を忘れて見入ってしまう。
その少し前に描かれた大我のクロノス変身も、「数年間バグスターウイルスに耐えてきたから変身できるのだ!」はびっくりするくらいのパワープレイ(シナリオ上の)だったが、それでも、事実上の「1号」である大我がニコを守って変身してクロノス対クロノスが繰り広げられるという流れは、風速がすごい。
こういった、瞬間最大風速を重視した作り方と割り切り方に、私はまんまと「乗せられちゃった」1年間であった。
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話は逸れるが、三谷幸喜という映画監督・脚本家に対して「彼の作品は『〇〇げ』(それっぽく、の意)に撮っているだけで本質的には上手くない」と評したのは、こちらも有名なライムスター・宇多丸氏である。
私は三谷監督の作品は好きなのだが(例外もあります。『ギャラクシー… ゲフゲフ)、宇多丸氏の言葉も非常に的を射ていると感じていて、 要は、「よくよく考えたらアレだけどその場その場は巧いっぽく仕上がっているから乗せられてしまいがち」というのは、むしろ三谷作品のウリですらあるのではないかなあ、と。
彼の作品は「事前にさり気なく蒔いた要素がここぞというタイミングで活きてくる」といった、俗に言うところの「伏線回収」に重きが置かれていて、クライマックスが近づくにつれ、それが雪だるま式に群像劇を転がしていくのが特徴的である。
立ち止まると「あれ?」という場面もあるが、そもそも、「立ち止まらせない」。
だから、一緒に走り抜けられた人は漏れなく「すげ~~」という感覚で上書きされてしまうという、要は、『エグゼイド』と似ていると感じるのだ。
『エグゼイド』のお話の作り方、イベントを雪だるま式に転がしていく方法論は、「三谷幸喜式」、つまりは「舞台的」だったと言えるのかもしれない。
そんなお話の作り方で辿り着いた最終回で、本作は「データ生命」を肯定するという驚きの着地をみせた。
「データで残っているのが命と言えるんですか?」という記者会見シーンでの記者の問いかけは、番組後半から私もずっと気になっていたポイントであり、同時に、作中最大の鬼門であるとも感じていた。
これをハッキリと問わせて、同時に、「言えます」という趣旨でハッキリと返す。
そう遠くない未来では人工知能やAIが今よりもっと当たり前になっていくだろうからして、こういう答えはSF的にも中々興味深いものであった。
これまた話が逸れるが、昨年ヒットした映画『シン・ゴジラ』のラストで、ゴジラは凍結した状態で東京駅跡地に残り続ける、というシーンが描かれた。
あのゴジラはいつ行動を開始するかもしれないし、その危険性も最後まで劇中で指摘されている。
私は、あれは、「事故があってもなお原発と共存していかなければならない今の日本そのもの」を模していると思っていて(前提として作品そのものが東日本大震災を意図的に想起させるものだったことは言うまでもない)、あのゴジラが完全に死ぬ訳でも海に帰りもしないラストは、メッセージ性と問題提起を同時にはらんだものだった。
『エグゼイド』も、明確な決着を描かず、「バグスターウイルスは(病気なので)完全には根絶できない」「でも治療法は未来で進歩していくかもしれない」という「共存こそが答え」という幕引きを見せており、それは、難病に苦しみながらも治療法が見つからない人が大勢いるという実社会の実情を如実に反映させたものだったと言えるだろう。
むしろ、逆に言えば、「データ化された人間が完全に戻ってハッピーエンドじゃいけない」(=現実は必ずしもハッピーエンドじゃないから)とも取れるような、このビターな後味が印象的であり、それは同時に、「難病に家族皆で向き合っていくことが最大の治療行為かもしれない」という劇場版『トゥルー・エンディング』のオチとも符合している。
本作が面白いのは、患者である星まどかという少女の本当の願いが「自分が元気になり運動会を楽しむこと」ではなく「父親の望みが叶えられること」だった部分だ。
それが明かされる前の段階で、永夢が南雲を諭すシーンがあるからこそ、このミスリードが活きてくる。
「子どもの命を、子どもの笑顔を守るのは、僕たち大人の義務じゃないか!」。
大人が子供を守るべきだが、その子供はなんと大人のために自らをバーチャル世界に閉じ込める選択をした。(この辺りは、実際の「安楽死」「尊厳死」を連想させるものであり、もしかしたら意識を電脳的に維持できれば肉体は不要かも? というSF的な問いかけも内包しているのが面白い。)
南雲は最終的に子供と向き合い、また、子供も父親と向き合って、この物語の「医療」のテーマは完結する。
親から子・子から親への、互いが互いを想う円環構造は、「例え難病で全快が望めなくても、誰かと支え合っていくことが未来に繋がる」という普遍的なテーマを描いている。南雲親子にとっての「トゥルー・エンディング」だったことも、言うまでもないだろう。
「医療の未来に希望を託す」という医療ドラマの大命題が「ヒーローはこれからも戦い続ける」というヒーロー物の王道オチとマッチするこの見事な大団円には、よくもまあ持ってきたなあ・・・ と、思わず感嘆の声が漏れた。
しかし同時に、バグスターと共存するという落としどころは「じゃあ殺して良いバグスターとそうでないバグスターの境界線はどこなのか?」という新しいハードルを掲げる側面も持っていて、この辺りを後のVシネや冬映画で描いてくれたら面白いなあ、とも思うのだ。(まあ、主人公サイドがその善悪を判断してジャッジするという独善的なオチだとしてもそれはそれで嫌いではないのだけど。「バグスターもひとつの命」と「バグスターウイルスを倒す」は必ずしも二律背反ではなく、「医療行為だから」というロジックがあれば【現時点では】そこはいくらでも割り切ってしまえると思う。バグスターに人権が与えられるような動きや法整備が出てくれば話は別だが・・・)
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早くも、「平成仮面ライダー」シリーズも、約20年。
その18作目にして、過去のシリーズの数々の挑戦や苦楽をハイブリッドに組み合わせた作りである『仮面ライダーエグゼイド』は、非常に魅力的な作品だったと思う。
「集大成」と言ってしまうと他作品とあからさまに比較しているようで嫌なので(実際そんなつもりは無いので)、『エグゼイド』は「シリーズのひとつの到達点」であると、そう表現して終わりにしたい。
本当に、楽しく翻弄された1年間でした。ありがとう、『エグゼイド』!
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