ジゴワットレポート

映画とか、特撮とか、その時感じたこととか。思いは言葉に。

このほど観たり読んだりしたエンタメの感想9連発(忍びの家、555パラリゲ、ジョン・ウィック4、キメラアント編、PLUTO、MONDAYS、GANTZ、龍と苺、ようこそFACTへ)

昨日に引き続き、リハビリがてらとにかく書いていきます。今日は、最近観たエンタメ(映画&漫画)の感想をざっくりと。また本腰入れて別記事でレビューをアップしたい作品も混じっていますが、それらは取り急ぎの初報ということで。

 

全てにおいて根幹のネタバレは避けますが、ふんわり触れかけているものもありますので、どうかご容赦を。

 

忍びの家 House of Ninjas

www.netflix.com

賀来賢人プロデュース&主演のネトフリオリジナル作品。全8話の連続ドラマ。嫁さんに進められて何の気なしに観たのだけど、いやはやこれが実に面白い。めちゃくちゃ楽しめた。洋ドラの作りをとても研究&踏襲していて、どういうシーンでクリフハンガーに繋げるか、複数の群像劇をどういった塩梅で走らせるか、クライマックスに向けてそれらを如何に収斂させるかなど、まずもって全体の構成が堅実。というか、「現代日本に服部半蔵の子孫一家が政府から依頼を受けて活動する諜報員のように存在していたら」という設定が、ありきたりのようでよくよく考えるとちゃんとは無かったような、知っているようで新鮮なアプローチになっていて、これがもうすごく良い。見知った日本人キャストだから取っつき易いし、タイトルに「家」とあるようにちゃんとホームドラマになってる。妙に背伸びすることなく、実現可能なバジェットでエンタメを真っ直ぐ追及して創りました、という感じ。お勧めです。シーズン2熱望します。

 

仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド

随分と昔に、児童誌連載の漫画かファンの二次創作か、一目見て感銘を受けた絵がある。それは、ファイズがホースオルフェノク(疾走態)に跨って心身一体で共闘して敵を倒すというもの。『仮面ライダーファイズ』という作品に “あえて” 続編を付け足すとして、じゃあそれをやる意味や意義として何が描けるかと考えると、「仮面ライダーとオルフェノクの共闘」だろうとぼんやり思っていた。当時の『ファイズ』は、これをしっかり映像で見せ場とはしなかったからだ。立場や生態が違う者同士が起こす軋轢や葛藤が『ファイズ』の旨味なので、その「違う者同士」が名実共に並び立ち共闘するのは、作品のテーマに対してとても素直な着地だ。また、20年前からすると今や価値観や感覚はすっかり変わった。「自分と異なる者」は、「もしかしたら身近にいるのかもしれない」から「当たり前に身近にいる」になった。そういうグラデーションの変化をも盛り込みながら、しっかりショッキングも用意して、迷いなく一直線にテーマに落とし込むあたり、流石の白倉&田崎&井上トリオだなと感服。この几帳面なバランス感覚に惚れるのよ。

 

ジョン・ウィック:コンセクエンス

シリーズ4作目にして一応の(一応の?)完結作。予算も上映時間もアクションの危険度も何もかも回を追うごと「膨張」していくジョン・ウィックシリーズ。上映時間が90~120分の映画が好きな自分にとって流石にどうしようかと思うくらい長かったけど、これはこれでジョンが辿るいつまでも終わらない悪夢を追体験するような仕上がりだった。階段を落ちた時はもうどうしようかと唖然としたし、凱旋門まわりのアクションにはゲラゲラ笑った。また、少年漫画的なストレートな熱さがいくつか盛り込まれていて、そういう意味ではシリーズ随一に「スカッと面白い」と言えるかもしれない。ジョンが行き着く結末は非常に納得がいくもので、むしろああじゃなきゃ嘘だろとも思っていたので、監督との解釈一致に喜んだ。アトロクでの監督インタビューも必聴。

 

HUNTER×HUNTER キメラアント編

途中までネトフリで配信されていて、かと思ったらU-NEXTで全話観放題だった。新ハンターアニメは特に序盤に原作からよく分からない改変をしたり、旧アニメの緩急のある演出からするとやや見劣りする場面もあるのだが、キメラアント編は本当によく出来ている。大量のキャラクターが複雑に交錯し、細かな時間経過や能力の応酬を重ねていくのだが、ナレーションと演出でそれらをばっちり捌いているのだ。シーンによっては原作より良いと断言したい。メルエムがコムギの名を思い出すシーンがドラマの頂点で、特にそのシーンの演出が好きすぎる。思い出すだけで泣ける。あの劇伴がお見事で、それを知ってから前の回を見ると普通に軍議を打っているシーンでそのアレンジが流れていて不意に涙がこみ上げたりもする。

 

PLUTO

www.netflix.com

長年の原作ファンなので映像化には不安もあったが、土下座で謝りたいレベル。素晴らしい。こんな完全無欠なアニメ化もそうそう無いだろう。手描きセルアニメの味をしっかり残しつつ、要所要所でCGを用いてダイナミクスをもたらす。むしろ、セルに対するCGの一種の違和感を演出が利用しているきらいまであり、何ともクレイジーだ。他方で、原作もとい浦沢漫画特有の「あれって結局どういうことだっけ?」な話運びはそっくりそのまま踏襲しており、しかしここまでのクオリティでやられるとそれすら愛嬌に感じられるからずるい。とにかく、手ごろに短く間違いのないハイクオリティなアニメが観たい人には、文句なしでこれを挙げておきたい。ありがとう。感謝しかない。作画が安定しているとか、ぬるぬる動くとか、なんかもうそういう域をとうに超えている。

 

MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない

正真正銘の「タイムループもの」で、そういうのを見慣れている人ほど面白がれる作品。このジャンルにありがちな設定やパターンをしっかり踏襲しつつテンポよく回していく前半部はかなり神がかっていた。タイムループって必然的に「同じカットや同じ演出が繰り返される」訳で、それらを極めてリズミカルに、もっと言えばミュージカルにも近い文法で処理していくのは実に納得度が高い。これはもはやパンパンスパパンですよ。逆に後半部、私としては前半の痛快さに比べるとかなりの喰い足りなさを覚えてしまったのだが、貴方ならどうだろうか。YouTubeで予告を観て「おっ!」と感じた人にはぜひ一度観ていただきたい。タイムループの解消としてこういうドラマに向かうのは分かるが、それにしても。うーむ。

 

GANTZ

急に思い立って文庫本全巻セットをポチってしまった。私は『GANTZ』を中高生にリアルタイムで浴びてしまった世代で、あの頃の「こんな漫画ッ!読んだことねェッ!!」という衝撃を今でも鮮明に覚えている。多感な中高生時代にこんなSFエログロを浴びてしまったらもう終わりですよ。終わりったら終わり。一寸先が読めない話運びが連続する本作だけど、巻末のインタビューで奥先生が「およそSF映画はほとんど観ているのでそれらのどれにも該当しない展開を連続させれば『誰も読んだことのない漫画』が描ける」と語っていて、そりゃ理論上はそうかもしれないけどエグいこと言ってんなと口をあんぐり開けた。今となってはデスゲームものの一種の祖にも位置づけられるのが感慨深い。ガンツがもたらすスーツや銃を日常生活で使える、この「異なる文法が日常に交じる興奮」こそがSFの醍醐味だよなあッ、って。

 

龍と苺

単行本で読んでいたが途中から我慢がきかなくなり、サンデーのアプリでコイン課金して最新話まで追いつき、今はサンデー本誌で読んでいる。自分がそれほどまでに「追いたい!見届けたい!」となった漫画は久しぶり。よく出来たエンターテインメントというより、歪なバランス感覚、突出したバロメーターを極めて自覚的に使いこなすようなタッチで、ついつい引き込まれる。嘘のようなタイミングで藤井八冠が誕生したのもひとつの追い風か。とにかく読んでみて欲しい。サンデーのアプリからでも、漫画アプリでも、何でもいいから。最初の数話を読んでみて「なるほどこういう『味』か」と思ったら、それが際限なくずっと倍々ゲームで濃くなるから。あと、今週発売のサンデー掲載の181話、驚愕の展開に目が点になった。物心ついてからこっち無数の漫画を読んできた半生で一番びっくりしたかもしれない。

 

ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ

『チ。』作者の最新作。単行本4巻で終わるボリュームで、つい先日最終話が公開になった。いわゆる社会的弱者に相当する主人公が陰謀論にハマってしまうお話。陰謀論がいかにある種のエンターテインメントに満ちていて、時にソリッドで、時に馬鹿馬鹿しくて、どうやって私生活に滑り込んでくるのか。ひとつの思考実験みたいな漫画で、見ちゃいけない世界を(漫画外の)安全圏から覗く優越感にも似た感覚がある。ウシジマくん型。そして、「この世界の多くが認識していない『真実』を知ってしまいそれを訴える者たち」という筋でやっていることが『チ。』と同じなのもブラックジョークが効いている。この主人公のような人間に本当に必要なのは、誰で、そしてどういった生き方なのか。着地が真っ当で綺麗なので、終わってみると余計に虚構部分が際立って感じられる。また初回から読みたい。

 

なんつってる間に4,000字っすよ。あ~あ、ブログ書きリハビリの辛いとこね、これ。

 

 

感想『ゴジラ-1.0』 山崎貴監督が語る「ゴジラとはなにか」。東宝の映画スター、その価値が最大化される銀幕にて

『シン・ゴジラ』から7年である。

 

加齢に従い「もう7年?」と驚きつつ、ゴジラというコンテンツにおいては「まだ7年?」というリアクションが発生する。このたった7年間で、ゴジラに対するスタンスや気構えのようなものは、随分と変化した印象を受けるからだ。

 

2004年の『ゴジラ FINAL WARS』で一旦のシリーズ終了を宣言したゴジラシリーズは、2014年のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA』で銀幕に復活する運びとなった。奇しくも国産巨大特撮は冬の時代に突入しており、ゴジラを始めとする怪獣映画や、円谷のウルトラマンもTVシリーズが制作されず、全体的な供給が薄かった時勢だ。ジャンルとしては2013年の『パシフィック・リム』が界隈を騒がせ、その翌年に『GODZILLA』が続いたこともあり、国内巨大特撮の未来を憂う風潮が加速していたことは否めない。そんな時勢に公開された2016年の『シン・ゴジラ』を、多くの特撮オタクや怪獣オタクは目をぎらつかせながら鑑賞したことだろう。「もしこれで『ダメ』だったら、ゴジラや国産怪獣映画の未来は更に厳しくなるのだろうか……」「桁違いの予算が投じられた海外製のVFXもりもりの怪獣映画がこれからの主軸になるのだろうか」。緊張、不安、覚悟。『シン・ゴジラ』は当時確かに、ゴジラシリーズの将来を占うかのような決戦作だった。

 

 

しかしながら、喜ばしいことに『シン・ゴジラ』は82億を超える大ヒットを記録する。庵野秀明総監督の作家性が色濃く反映された本作は、いわゆる「特撮映画に興味がない人」を観客として巻き込むことに成功した。

 

そこから7年。気付けばゴジラは完全にコンテンツとしての息を吹き返している。国内では『GODZILLA 怪獣惑星』に始まるアニメーションシリーズ、通称「アニゴジ」3部作が公開。同じくアニメーション分野では『ゴジラ S.P』がTV放映される。レジェンダリー版のゴジラは『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』『ゴジラvsコング』と順調にシリーズを重ね、2020年からはフェス・ゴジラシリーズと題して短編ながら従来のSFXを主体とした新作が供給され続けている。また、2019年から続く『怪獣人形劇 ゴジばん』シリーズも忘れてはいけないし、「シン・」シリーズの一員としてエヴァ・ウルトラマン・仮面ライダーと肩を並べて度々メディアにも露出した。

 

この7年間、作品や作風というより、もっと広くメディア単位で「ゴジラの多様化」が急速に進み、ファンも多くのゴジラを目にしてきた。在りし日より確実に、ゴジラが活気づいてきている。それが何より嬉しい。こうして迎えたゴジラ生誕70周年記念作品、『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナスワン)。『シン・ゴジラ』当時のような殺伐とした決戦の様相とは異なり、「さぁ、今度はどんなゴジラが観られるのだろう」というある種リラックスした気構えで挑めたことが、隔世の感である。まだ、あれからたったの7年なのに。(以下、本作のネタバレを含んだ感想を記す)

 

引用:https://eiga.com/movie/98309/gallery/18/

 

実写映画のゴジラシリーズは、(タイムトラベル等の変則技はありつつ)、原則として常に「公開当時」を舞台にしている。1作目からして、1954年に公開された1954年の物語だ。であるからして、本作『ゴジラ-1.0』が2023年公開にして第二次世界大戦末期や終戦直後を描くのは、極めて異例なことである。将来的には、江戸時代やもっと古い時代の呉爾羅を実写映像で観てみたいなぁ、と思う訳だが、それはさておき。

 

終戦直後という、1作目の1954年より前の舞台を描く背景については、山崎貴監督の各種ウェブメディアやパンフレット等のインタビューを読むと理解が深まる。同監督による2007年の『ALWAYS 続・三丁目の夕日』にフルCGのゴジラを登場させた際、短い登場時間にも関わらず相当のリソースを要したとのことで、その経験から「ゴジラを撮る」という選択肢はしばらく採択が叶わなかった。東宝サイドからの度重なるオファーやその流れについてはパンプレットに詳しいが、その後『永遠の0』『海賊とよばれた男』『アルキメデスの大戦』といったフィルモグラフィーを経ることで、「昭和」「海洋」「戦艦」「戦闘機」等の絵作りの知見、VFXの練度が高まり、ようやっと「ゴジラを撮る」に結実した訳だ。

 

つまり、山崎監督は職業監督として非常にクレバーな判断を下したのか、「自身が得意とする昭和・海洋・戦艦・戦闘機のVFXを主軸とすればゴジラを撮れるのではないか」という思想設計が垣間見える。また、「ゴジラはとにかく恐いもの」「ゴジラは神であり獣」という解釈も度々インタビューで述べており、敗戦のどん底を更に落とす恐怖の荒神、という方向性にまとまっている。

 

『シン・ゴジラ』では、海洋シーンのVFXについてクオリティやリソースの関係から描写を絞ったと庵野総監督は語っており、その反面、自身が好むミニタリー描写や徹底した考証によるフェティシズム溢れるカットの数々で、災厄(戦争あるいは震災)を模したゴジラとして1954年のゴジラを見事に本歌取った。極めてオタク的な思想設計、ゴジラの概念や構造をリブートする姿勢こそが『シン・ゴジラ』のミソであり、それが庵野総監督なりの「戦い方」だったのだろう。「邦画職業監督」として挑んだ山崎監督とは全く毛色が異なる。

 

 

「海洋」というトピックでいくと、これほどまでに「ゴジラは海に生息している」に正面から挑んだゴジラはとても珍しい。『シン・ゴジラ』も前述のようにここを短く捉えた他、過去のシリーズにおいても「海から来て海に帰る」で済ませてしまっている作品は少なくない。2004年を最後に取り壊されてしまった東宝大プールでは、ゴジラが海中から上半身を露出し、のっしのっしと歩きながら自衛隊と渡り合うカットが幾度となく撮影された。しかしながら、「海中に生息するゴジラ」「海面を泳ぐゴジラ」となるとかなりケースが限定され、それもワンカット等の見せ場だったりする。

 

しかし『ゴジラ-1.0』は、後半に出てくる作戦名がワダツミ(海神)であることからも自明だが、VFXによる海洋カットにとても意欲的に取り組んでいる。サメ映画のように鋭利な背鰭が泳ぎ、海面から顔を出したまま船を追尾し、海中に沈んでもがき、また浮上して人類に立ちふさがる。波の動き、海面のうねり、水しぶきや重力表現、各種シミュレーションやエフェクトには膨大なリソースを要したとのことだが、その甲斐あって本当に素晴らしい出来だ。「ゴジラと海」という一点においては、シリーズ過去作の追随を一切許さないクオリティである。ありがとう『永遠の0』、ありがとう『海賊とよばれた男』、ありがとう『アルキメデスの大戦』。(海の神を水圧の変化で鎮めるという儀式じみたアプローチも実に小気味良い!)

 

このように、山崎監督は極めて商売人な感覚で、「自身がゴジラを撮った際に最大出力できる強みは何か」を検証し、戦略的に絵に繋げている。『ゴジラ-1.0』公開直前、X(旧Twitter)に掲載された山崎監督のあるコメントを聞いて、私は「あ、これは大丈夫だ」と勝利を確信した。以下のものである。

 

 

ゴジラとは、「とてつもないものに出会うという映画館でしか味わえない体験」。シンプルなフレーズだが、これに尽きる。

 

そう、ゴジラとは、戦争の申し子でも、怪獣王でも、核や震災の擬獣化でも、怪獣プロレスチャンピオンでも、そのどれでもあってどれでもないのだ。でけぇ生き物が、でけぇ音を鳴らしながら、でけぇ破壊をもたらす。それが映画館の巨大なスクリーンや音響によって紡がれ、目や耳から脳に叩き込まれ、気付けば恐怖や畏怖を抱く。「恐怖や畏怖」、その感情に様々なジャンルはあれど、まずはとにかく「でけぇ」バケモンがとてつもないんだ、と。

 

『ゴジラ-1.0』を観て痛感したのは、ゴジラはやっぱり希代の映画スターだという純然たる事実だ。「ゴジラという物語をどう構築するか」の深度を極めたのが『シン・ゴジラ』だとしたら、「ゴジラという映画スターの価値を最大化できる映画をいかに撮るか」が『ゴジラ-1.0』と言えるのかもしれない。そういう意味で、『ゴジラ-1.0』はとても「ゴジラ映画映画」というか、ゴジラ映画をひとつのビジネスとして俯瞰した視座から出力されている印象を受ける。

 

東宝が、フェティシズム&オタッキーな『シン・ゴジラ』の後続に「大衆向けを担える邦画職業監督」を起用するのは、実にクレバーというか、なるほど納得である。どちらが優れているとかそういうことではない。夜通し特撮の話で盛り上がれるオタクの友人と観たいのは『シン・ゴジラ』だし、特撮に興味がない妻と一緒に観たいのは『ゴジラ-1.0』だ。

 

山崎監督が、自身の持てるスキルや培った経験を活かし、「とてつもないものに出会うという映画館でしか味わえない体験」を追求するとしたら。その主演に、東宝が誇る映画スター・ゴジラを迎えるとしたら。「昭和」を舞台に、「海洋」に棲む巨大生物が、「戦艦」や「戦闘機」と雌雄を決する。なるほどこれしかあり得ないだろう。

 

引用:https://eiga.com/movie/98309/gallery/13/

 

加えて、中盤の銀座大破壊シーンだ。列車を咥えるカットは言うまでもなく1954年『ゴジラ』のオマージュなのだが(なおエメゴジにも似たようなシーンがあるのが面白い)、それが小さく感じられる程の相当な壊しっぷりである。ゴジラのモーションや建造物の破壊に、ザ・ジャパニーズ・トクサツ、着ぐるみやミニチュアの遺伝子が確かに生きていたことは言うまでもない。

 

特に、報道陣が建物の屋上からゴジラを捉えそのまま死に至る一連のシークエンスなんか垂涎モノだ。この手の「一般人がゴジラに襲撃されるシーン」は、従来であれば「こっちで起きていること」「一方こっちで起きていること」「引きの絵のミニチュアや合成を少し挟むのでその両者の位置関係はこうです」とアリバイ的にカットを割り続けることで成立させてきた訳だが、それがワンショットに収まったままシームレスに展開される、この驚くべき絵作りといったら! 先に『永遠の0』や『アルキメデスの大戦』を挙げたが、そもそも『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や『DESTINY 鎌倉ものがたり』等で「空想の世界」を自在のアングルで撮り続けてきた山崎監督である。VFXの練度を含め、過去のゴジラでは観たことのないショットが数多く登場する。

 

ブン、ブン、ブン、と音程を上げていくレジェンダリーゴジラの熱線描写も随分な発明だとえらく感動したものだが、本作の背鰭を用いたギミックも全く引けを取っていない。いやむしろ、オモチャ的な魅力を勘案するとこちらに軍配が上がるだろうか。直後のキノコ雲が上がるまでを含め、「とてつもないものに出会うという映画館でしか味わえない体験」でこれでもかと脳を殴られるのが、一連の銀座シーンであった。映画冒頭の人間を咥えて放り投げるゴジラが、相対的にまだ生易しかったなんてな、はは……。

 

ストーリーラインとしてはこれまた異例で、政府筋の人間や軍人が基本的に登場せず、民間人主導でゴジラを鎮めるというクライマックスが待っている。コロナ禍を反映したらしい「対応が後手の政府」「民間人や個人がなんとかしなくてはならない」という焦燥感、ひとりひとりが立ち上がって生きて抗うことの意義、そういったものを謳った作りになっている。戦争を扱った映画では自己犠牲や特攻がともすれば美しいものとして描かれることがあるが、本作ではこれをきっぱりと否定し、「犠牲者を出さずにゴジラを鎮める」と宣言してみせる。これは令和的なフィクションの時勢を加味した、また、民間人主導という本作の特徴的な構造を活かすものとして、とても筋が通ったものだ。土壇場で民間の船がこぞって駆けつける、スカイでウォーカーな夜明けっぽい展開についても、「敗戦のどん底から這い上がろうとする民間人の意志」を想えばついグッときてしまう。ラストの浜辺美波の首筋に浮かぶ黒いアザは被爆を模していると思われるが、そういった「市井の人々に残り続ける戦争の恐さ」においても“民間的”だ。

 

とはいえ。「民間人が立ち上がり、結束し、ゴジラを鎮める」という筋の出来が良いだけに、「俺たちの戦争はまだ終わっていない」「戦争で生き残ってしまった男たちが過去にケリを付ける物語」「倒したゴジラへ敬意をささげる敬礼」あたりの要素がちょっと食い違っているというか、結局それって「元軍人やそれに類する人の話(民間ではない人の話)」になっちゃってるんじゃないの、という感覚は否めない。この辺り、美味しいとこ取りにちょっとミスっている感覚がある。まあ、敗戦直後というこの辺りの属性が極めて曖昧なグラデーションを描く時代なので、中途半端なのがそうと言われればそうかもしれないが……。特に、私はやっぱり最後の敬礼は要らないと思うのだ。意図は分かるが、この話の筋で彼らがゴジラを敬う感情の動線が分からない。(Xでは敷島に向けた敬礼だと解釈する声もあるが、敷島の「受け」のカットや演技が無いこと、勝利の笑みではなく死者を見送る表情で敬礼をしていたことから、「ゴジラへの敬礼」とする読み取りは誤っていないと思われる)

 

いわゆる邦画的な説明台詞、叫びのニュアンス、コテコテの演技を指摘する声も多いが、まぁ、これはなんというか……。「山崎貴監督作品を観に行く」のであれば当然待ち受けているものであったり、『FINAL WARS』以前のゴジラシリーズの本編班に比べたらむしろ大衆向けに洗練されているとまで言えてしまうレベルであったり。というか、すっかりゴジラが「普通の邦画」と同じ評価軸で語られていますね!よしよし!、といった感覚が本音だ。やったぜ。……すまない、とっくにひん曲がった特撮オタクなので。

 

さて、ゴジラ以外の長寿シリーズに目を向けると、同業他社でいえば例えば円谷のウルトラマン、東映の仮面ライダーやスーパー戦隊も、その時々に「なんてことをやるんだ!」と物議を醸す問題作が無数に作られてきた。同じことをやり続けても発展はなく、変わるために変わり続けなければコンテンツは永続しない。『シン・ゴジラ』からこっちの7年間、前述のようにゴジラは急速に多様化し、変わり続けてきた。とても素晴らしい潮目である。

 

「昭和シリーズ」「平成VSシリーズ」「ミレニアムシリーズ」と続き、私は『シン・ゴジラ』以降の作品群を勝手に「クリエイターシリーズ」と呼称している。従来の様式美や撮影方式にとらわれず、ゴジラというコンテンツが一旦閉じたり海外で作られたりする土壌の末で、各クリエイターが自身の作家性をフルに発揮した多様な「俺ゴジラ」を世に送り出す。そんな潮目、そんな時勢。庵野秀明や樋口真嗣は極めてオタク的なこだわりを、虚淵玄は観念的な怪獣の再解釈を、円城塔は徹底したSF考証によるエンターテインメントを、マイケル・ドハティはその剛腕で巨獣プロレス愛の追及を。

 

そして、山崎貴は。希代の映画スター・ゴジラを映画館で映えさせる、その魅力を最大化させる技術を。海の向こうの作品群と戦えるだけの絵作り、自身が得意とするVFXで勝負できる戦場の選択を。その昔ゴジラに覚えた恐怖や畏怖の再演を。「一般の邦画」としての見てくれ、格、大衆娯楽性、そして世界に展開するためのジャパニーズ・トクサツ・ゴジラを。

 

本作は、設計や戦略が明確で、それぞれがある程度しっかり成功している、ゴジラ史に残るエバーグリーンになっていくのではないか。銀幕で暴れる巨体、海を泳ぎ迫りくる巨体、人々を恐怖のどん底に叩き落す巨体。そのフィジカル、ダイナミクス、スペクタクル、アトラクションの徹底した追及ぶりは、歴代でも最上級の代物だ。ゴジラとは何か、そのアンサーに迷いがない。映画観のスクリーンサイズと音響がそれを成立させる。

 

なお、『ゴジラ-1.0』は12月1日より北米1,000スクリーン以上で公開予定である。それを踏まえると、銀座の街並みや戦艦・戦闘機の活躍、エンドロールを含め都合三度も流れるゴジラのテーマは、「外国人ウケ」として申し分ないだろう。やはり、すこぶる職業監督である。

 

 

感想『シン・仮面ライダー』 可笑しさに酔え。歪曲に震えろ。これが再認識エンタテインメントだ。

平成ライダー世代である。

 

幼心に『BLACK RX』に思い出がありつつも、しっかり腰を入れて鑑賞したのは『クウガ』が初めて。それ以降、日曜に仮面ライダーを観る生活を送って二十年以上が経った。昭和ライダーにしっかり触れたのは、無限の時間を持て余していた大学生の頃。レンタルビデオ屋でDVDをごそっと借りてきては、タワーのように積んで連日をかけ鑑賞した。

 

そうして出会った初代『仮面ライダー』を、この令和5年にまた、『シン・仮面ライダー』への予習として鑑賞した。久方ぶりに第1話から鑑賞すると、藤岡弘の体当たりの演技に感銘を受ける。大野剣友会による生々しいアクションは、ショッカー戦闘員をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。カットを細かく切り替え、跳躍と共に岩壁の頂に降り立つ仮面ライダー。番組のフォーマットが確立するにつれ、そのヒロイズムに安定感がもたらされていく。

 

引用:シン・仮面ライダー : 作品情報 - 映画.com

 

しかしながら、私は『シン・仮面ライダー』に明確な不安があった。それは、原典『仮面ライダー』の今となってはノスタルジックな演出の数々を、そっくりそのまま再演するのではないか、という点だ。

 

「ライダぁぁぁぁァァ……」と鋭い眼光のまま溜めるように叫び、見栄がキレる変身ポーズを放ち、画面が極彩色に包まれ仮面ライダーが登場、目出し帽を被ったショッカー戦闘員が仮面ライダーをわらわらと取り囲み、泥臭いカットが長回しで展開され、ライダーの跳躍にワンカット+SE、空中回転にワンカット+SE、ふらっと落下しつつもキックのポーズにワンカット+SE、そしてショッカー怪人は突如として人形になり崖の上から人権の無い勢いで落下し爆散する。まさか、「そういった様式美」をあえて描き直すような、そういった作品になるのではないかと。予習をしながら、様式美の数々に頷きつつも、少しの不安が過ぎる。

 

というのも、シンシリーズの前作にあたる『シン・ウルトラマン』が、割とそういった方向性にあったからだ。吊り人形の操演をそっくりそのままやったり、当時の印象値や名場面の数々をかなり忠実に再映像化する。ただ、『シン・ウルトラマン』に限ってはこれが功を奏していた。『ウルトラマン』のTVシリーズを一本の映画に再構成しつつ、青い星を守ってくれた銀色の巨人への憧憬をテーマとするならば、牧歌的かつノスタルジーに浸れる塩梅で構築することに異論はない。「懐かしさ」や「古めかしさ」を感情的なギミックに用いていた訳だ。

 

 

しかしながら、『仮面ライダー』はちょっと違う。

 

変身ポーズ、戦闘員、藤岡弘によるドスの効いた低い声、男臭い掛け声、跳躍、そしてキック。その全てが様式美としてあまりに強く認知されたが故に、それをそっくりそのままやると何かのコントやコメディを見せられているような、そんな恐ろしさを孕んでしまっている。本家東映が平成以降に制作した場合においても、大集合系の映画で昭和ライダーがその様式美を強めに振りかざすと、途端にフィクションの線引きが乱高下するのだ。なんだかちょっと、おもしろ可笑しくなってしまう。もはや、あの様式美それ自体の美学は、当時のフィルムの中にしか存在し得ないのではないか……。

 

それでは、アプローチを変えてみるか。『シン・ゴジラ』はどうだったろう。こちらは、我々のよく知るゴジラを、進化前というアイデアで「全く知らない恐いもの」として銀幕に登場させた。何か得体の知れない巨大な動く災害が、東日本大震災を想起させながら、福島第一原子力発電所を暗示しながら、無慈悲に日常を踏み潰していく。終戦からまだ数年のあの頃、戦争の記憶が生々しい当時の観客は、初代『ゴジラ』を如何に観たのだろうか。そんな時代背景をも疑似体験できる映画として、『シン・ゴジラ』は実に本歌取りに長けていた。

 

 

『シン・ウルトラマン』が「ノスタルジックの再演」だとするならば、『シン・ゴジラ』は「鑑賞体験の再演」。そしてトリを務める『シン・仮面ライダー』は、何をどう描いてくれるのだろう。庵野秀明監督は、当時『仮面ライダー』を「どういう作品」に観たのだろう。

 

例によって前置きが長くなったが、以下、『シン・仮面ライダー』のネタバレを交えつつ感想を記す。

 

※※※

 

作品冒頭、大型トラックに追われるサイクロン号。派手な映像的な見せ場を重低音と共に立て続け、暴力性を制御できない仮面ライダーがバイオレンスに暴れ回る。「掴み」の強い導入だが、物語はそこからノンストップで転がり続ける。クセが強すぎる敵怪人が次々と顔を見せては、あの手この手でライダーを殺そうとする。元となった虫や動植物のパワーを振りかざし、ある者はシンプルに暴力で、ある者は実験都市の長として、ある者は狡猾な暗殺者のように振る舞う。本郷猛と緑川ルリ子は、政府筋の謎の男らの協力を得ながら、ショッカーの怪人達を退ける。そして、物語はルリ子の兄に迫っていく……。

 

正直なところ、一本の映画として巧いかと問われれば、私はあまりそうではないと答えるだろう。懐かしの『キューティーハニー』の匂いがするぞ!……などと感じつつも、庵野監督の絵作りは、凝り性と不親切を忙しく反復横跳びし続ける。

 

 

一周してイマドキにもなりつつある人工知能を盛り込んだショッカーの再解釈や、それによるロボット刑事Kのようなキャラクターの立ち回り、プラーナという設定を用いた科学と観念を紐づける構成に、父よ母よ妹よのダブルタイフーンな0号に至るまで、その全てが映画として効果的に機能したとは思えない。盛り込みすぎたが故の結果か、はたから整然さを目途としていないのか。シンプルに劇場用映画としてのクオリティで言うならば、間違いなく『シン・ゴジラ』に軍配が上がるだろう。

 

しかしながら、私は『シン・仮面ライダー』を観ながら強烈な思いに襲われた。正直びっくりした。頭では「なんでこんな粗雑な作りなんだ」と眉間に皺を寄せつつも、身体は反応していた。確かに血が躍っていた。それは、大学生のあの頃にDVDで観た、そして最近までまたもや配信で観ていた初代『仮面ライダー』の、その番組としてのリズム、テンポ、ケレン味、こういったものが見事に再現されていたからだ。

 

結論から言うと、今回は「ノスタルジックの再演」でも「鑑賞体験の再演」でもなく、「テレビ番組の再演」だったのではないか。割と早い段階でそう思い至った。

 

改めて『仮面ライダー』を観ると、作風やテイストが安定するまでの試行錯誤が凄まじい。突貫工事で制作されていた背景もあるだろうが、それによる突発的な展開や整合性をかなぐり捨てたような話運びには、独特の味がある。まずショッカーの怪人が攻めてきて、ライダーはそれを受けて行動を開始する。毎回のエピソードを回すのは、ライダーでもおやっさんでも滝でもなく、あの手この手で人類征服を試みるショッカーの怪人達なのだ。素っ頓狂な計画を進める怪人もいれば、頭脳派な性格を覗かせる怪人もいる。その多彩な造形も相まって、まずはショッカー怪人ありきでバラエティさが担保されていく。

 

演出やテンションもぶれぶれだ。初期にまだ変身ポーズが無かったのは有名な話だが、ライダーが登場するシーンも各監督によってかなり自由な解釈が加えられている。突然コミック的な絵が挟まってコマ送りに変身するシーンもあれば、サイクロンを伴って劇的なライティングで出現したりもする。ショッカーの被害者や戦闘員も、泡になって消えたり、糸が引っ張られるように消えたり、ライダーにビルの屋上から投げ飛ばされて血しぶきを撒き散らしたりする。たまに何が起きたのかよく分からない必殺技が唐突に登場するし、緊迫の危機をなんだかぬるりと脱したり、意図が汲み辛いシーンもあったりする。そしてこれは偶然の結果ではあるが、藤岡弘の撮影中のバイク事故により仮面ライダー2号が登場することとなり、作品のテンションはまるで別物のように変貌する。

 

番組の空気感が明るく刷新され、都会派で小意気な一文字が番組を牽引する。変身ポーズが持ち込まれ、少しずつ我々の知る仮面ライダーの型のようなものに近付いていく。ダブルライダーがそろってからも、当初のおどろおどろしい怪奇テイストからは考えられない、少年仮面ライダー隊やライダーガールズなる組織まで登場する。ゲルショッカーの戦闘員はもはや番組初期の戦闘員とは並び立てないほどにフィクション性を増し、孤独に苛まれていたはずの本郷は数えきれないほどの支援者や戦友を獲得していく。

 

そんな偉大なる歪曲の歴史…… なにがどうしたってそう変化したのか、偶然と結果論と視聴率に応えた末に完走した『仮面ライダー』は、東映の社風に実に忠実な作品だ。言うまでもなく、この手の荒唐無稽さは『仮面ライダー』に限らず時代性による部分も大きい訳だが、とはいえこれが国民的ヒーロー番組として人気を博すこととなった。

 

なにか「きれいなもの」「ととのったもの」というより、とにかくテンションが高く、ハッタリとケレン味に満ちた絵作りが続き、ハイライトでは主題歌をギャーン!と鳴らしながらライダーがエネルギッシュに立ち回る。お話は何がどう飛び出すのか分からないが、正義の飛蝗怪人の格闘がかっこいい。けたたましく響くバイクの排気音がかっこいい。怪人達が仕掛ける多種多彩な作戦がお話に色を付け、それをことごとくライダーが砕いていく。目の前の回が終われば間髪入れず現れる次週の怪人にご期待し、その時その時の都合で演出も設定も着のままに降って湧いてくる。そんな、なんだかちょっと変な作品。

 

あの目まぐるしさ。絵としての熱気の高さ。「荒唐無稽」と書いて「豊かさ」と読むような、番組としての軌跡。

 

『シン・仮面ライダー』には、その足跡が確かに打ち込まれていたのだ。それも、我々の知る「昭和ならではの様式美」に頼ることなく、庵野秀明の作家性による筆致で。この点に、私はどうしようもない愛着を抱いてしまった。「す、すごい!『仮面ライダー』だ!」「俺は今、びっくりするくらい『仮面ライダー』を観ているぞ!」と。

 

引用:シン・仮面ライダー : 作品情報 - 映画.com

 

本作に関する最初のメモの日付は、2016年1月8日。

それから完成までの7年間強の間、自分を支えた最大のモチベーションは「僕の考えた仮面ライダーを作りたい」ではなく「仮面ライダーという作品に恩返しをしたい」でした。

自分にできる恩返しは、ATAC等で過去作の資料保存と啓蒙活動に加えて、「新作」を作ることでオリジナル作品を自作で越えるのではなくオリジナルの魅力を社会に広げ、オリジナルの面白さを世間に再認識して貰う事でした。

・東映(株)事業推進部発行『シン・仮面ライダー』パンフレット(P29)庵野秀明監督のコメント

 

組織の追手であるクモオーグとの戦闘は、文句なしのロケ地で高低差を意識した縦の組み立ててで魅せる。続くコウモリオーグは科学者としての罠を張り、それを変形したバイクで空中に追い詰めキックを叩き込む。サソリオーグが全身全霊で映像を賑やかしたかと思えば、ルリ子との因縁にまみれたハチオーグは実験都市を組織し、高速すぎてコマ抜きやフレームが落ちたアニメ的なアクションでライダーと渡り合う。

 

カマキリ・カメレオンオーグは透明能力を用いて物理ナイフでルリ子を殺め、心を取り戻した2号に力の限りの一撃を喰らう。群生バッタのショッカーライダー群を決死の覚悟で迎え撃つダブルライダー。そしてボスであるチョウオーグは、言うまでもなく仮面ライダー然としたスタイルに身を包み、人類補完計画の紛い物のような信念と謎の念力パワーで襲い来るのだ。迎え撃つ仮面ライダー達は、泥臭く、汗と血にまみれて応戦する。

 

このお話の豊かさよ。見せ方のバラバラ加減よ。単体のオーグの数でいくと、ライダーと交戦していないサソリオーグを除いて5体もいる。『仮面ライダー』を5話連続で観ると、なんだかだいたいこういう観心地にならないだろうか(もちろん偶然だろうが、上映時間121分を5で割ると約24分。およそ放送1回分である)。それも戦闘シーンではほぼ毎回、ギャーン!と主題歌の攻撃的なアレンジが流れるのだ。倒しては次が現れ。倒しては次が現れ。エキセントリックなキャラクター達が叫び合いながら、仮面ライダーがとにかくかっこよく、ケレン味たっぷりに痛快にそれぞれを撃破していく。

 

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思えば、『仮面ライダー』にシリーズ構成のような巧さを感じたことはなかった。むしろそこは、あまりに無軌道に移り行く部分だと感じていた。それでも、『仮面ライダー』には何か強烈な、他にはない個性のような、引力のような、目を離せないテンポやリズムやテイストがあったのではないか。そういったオリジナルの魅力、テレビ番組としての持ち味を再認識できた体験として、私は『シン・仮面ライダー』がとっても好きになってしまった。

 

重ね重ね、『シン・仮面ライダー』は「出来が良い」とはあまり感じられなかった。でも、その理論の筋で言うならば、原典の『仮面ライダー』は同じような意味で「出来が良かった」のか? ……という話なのだ。当時の熱狂やムーブメントは、「出来が良い」から起きたものだろうか?

 

また、『仮面ライダー』の「仮面ライダー性」を際立たせるためか、特に石ノ森章太郎の萬画版で顕著だった「大自然の使者」「科学と自然の闘い」といったスケールの大きいテーマは、ほとんどばっさり切られていた。仮面ライダーの特性とは何か。それは、宇宙からやってきた巨大な宇宙人でもなく、個性が集まった5人のヒーローチームでもなく、改造人間の悲哀を抱いたごくごく個人の物語であることだ。個人の小さな物語を、個人の視野で語る。ショッカーという組織を相手取りながら、結局のところ個人vs個人(オーグも仮面ライダーもルリ子も同様に)が連続する作りは、他の有名特撮シリーズより仮面ライダーの専売特許と言えよう。

 

そしてこの萬画版でいくならば、言うまでもなく、ラストの落としどころは萬画『仮面ライダー』のPART4「13人の仮面ライダー」の引用である。萬画ではショッカーライダーに殺されてしまった本郷の「心」が、そのショッカーライダー群から反旗を翻し仮面ライダーを継ぐことにした一文字に移植され、ふたりは一心同体を果たす。「サイクロンの排気音も、そのにおいも、そしてからだにぶちあたる風の力も」。ここでホルマリン漬けにされた本郷の脳みそらしきものが映る訳だが、『シン・仮面ライダー』はプラーナという設定を用いてこの一心同体を達成している。

 

 

プラーナは、設定としてやや持て余し気味だったと感じていた。肝心のショッカーが何をどう目指した組織なのかよく分からないことになっているのと同じで、もう少しここを整理して描いて欲しかった気持ちがある。とはいえ、庵野監督よ……。もしかして、これが……。この、「本郷と一文字が継承の名の下に一体化し新1号になる」、これがやりたいがためのプラーナの設定だったんですか……。これは……。いい……。いいですよ……。仮面ライダーって、個人の話だもんな……。そしてそれが後輩達まで脈々と受け継がれていく、魂のリレーの番組だもんな……。このバトンの受け渡しっぷり、こんなんやられたら……。痺れますよ、私ァ……。ううう……。

 

最後に。仮面ライダーの佇まい。造形やルックの説得力。これがもう何より、素晴らしかった。誤解を恐れず言うならば、私は仮面ライダーを「正統派のかっこよさ」だとは解釈していない。元が骸骨のヒーローだったことは有名だが、飛蝗のデザインのヘルメットを被ったライダースの男がぬぼっと立っている、その異形感が重要なのだ。どこか滑稽で、奇天烈で、一歩間違えれば妙に可笑しい存在。学芸会の被り物のように可笑しく、人生を憂うように冷たい。そんな異形が、人を簡単に絞め殺してしまえるようなパワーを、自身が信じる正義のために振るう。

 

可笑しいヒーローが歩んだ、歪曲の歴史。それが唯一無二、あの頃の熱狂の根源的正体なのだとしたら。『シン・仮面ライダー』は、作り手の深い敬意と怨念めいた情熱を原動力に、そこに肉薄していたのではなかろうか。

 

 

公式がネタバレをどんどん投下する『シン・ウルトラマン』の広報戦略がイマドキ

映画『シン・ウルトラマン』の広報まわり、とても興味深い。

 

俗な表現でいくと「公式がネタバレをどんどん投下してくる」パターン。これは色んな意味でイマドキだなと、公開から約2ヶ月、楽しんで見ていた。(公式が正式に情報を出してるのでネタバレもへったくれもないのだが、文意優先でそう表現することをお許しください)

 

引用:映画『シン・ウルトラマン』ゾーフィ&ゼットン名場面映像【大ヒット上映中】 - YouTube

 

以下、記録も兼ねて投下ペースと内容の列挙を。

 

2022年5月13日。映画『シン・ウルトラマン』が公開。この時点では、予告映像に登場したネロンガ・ガボラ・ザラブ、そしてメフィラスの人間態のみが登場怪獣として判明しており、ファンの多くはどの怪獣が登場するのか期待に胸を膨らませていた。メフィラスが怪獣態になるかどうかも、勿論不明だった。

 

 

5月23日。まさかの登場となったゾーフィの存在が明かされる。フィギュア化の一報から公になるパターン。まだ劇場公開から1週間そこらである。

 

 

5月25日。長澤まさみの巨大化が明かされる。メフィラスが出る時点で大方予想はされていたが、マジでやるとは。ロケ地も当時のフジ隊員と同じ場所らしく、原典を知る層に訴求していく。

 

www.cinematoday.jp

 

 

5月27日。本編冒頭映像1分17秒がYouTubeで公開。『ウルトラQ』関連の怪獣の存在など、ケレン味たっぷりの導入部が明らかに。シン・ゴメス解禁。

 

 

6月3日。主題歌コラボMVが公開。メフィラス星人の怪獣態と『シン・ゴジラ』への目配せを兼ねた竹野内豊の出演が明かされる。

 

 

6月4日。公式から正式に「ネタバレOK」とのお達し。公開からまだ1ヶ月も経っていない。

 

 

6月6日。山本メフィラスムーブメントに迎合するように、メフィラス名場面映像が公開。ネットの盛り上がりを公式が追いかける。「時流に乗る」、私の好きな言葉です。

 

 

6月13日。ウルトラマンの声を演じたのが高橋一生であることが公開。ここで公開からちょうど1ヶ月。

 

 

6月24日。本編冒頭映像10分33秒がYouTubeで公開。グレーの体色でAタイプなウルトラマンがスペシウム光線を放つまで。予告で使われていた光線シーンが事実上のフェイクだったのも、今思えば遠い日の面影。

 

 

6月25日。ゼットンが公開。公式からこのビジュアルが公になったのはおそらくこれが初。

 

 

6月27日。ゾーフィ&ゼットン名場面集が公開。山寺宏一の声の出演も明かされる。クライマックスの映像がめちゃくちゃ使われている。

 

 

6月30日。VFXのメイキングが公開。モーションキャプチャーでクレジットされていた庵野氏の実際の動きが見られる。「 “あの庵野” がウルトラマンを演(や)る」という文脈の強さもあってか該当ツイートは数時間で万単位のRTへ。

 

 

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「劇場公開とTwitter」というトピックは、常にネタバレ問題と隣り合わせだ。

 

結局は各人がTLを巧く構築する他ないのだが、特に大作が公開された週末あたりからは、Twitterにふせったーの波が押し寄せる。「(作品タイトル)、○○○○○○○・・・」というツイートが無限に出現し、ネタバレ配慮のワンクッションを置いた上で感想が交わされるのだ。

 

 

ふせったー公式も、大作が公開されたり最終回を迎えたりすると、商機を逃すまいとこうして存在をアピールしている。このサービスは作品の展開やオチに限らず、作品に仕込まれた何らかのサプライズについて語りたい際に、非常に有効である。私もふせったーを長年愛好しており、その恩恵は重々承知している。

 

とはいえ、それはいわゆる性善説に基づくような話だ。公開直後だろうがなんだろうが、ネタバレをオープンにがんがん話題にする人は結構いる。オープンにして話すと未見の人の興味関心を削いでしまうのではないか・・・ という配慮(?)のマインドも、もしかしたらすこぶるオタク的な発想なのかもしれない。

 

それに、不用意にネタバレな話題を扱うとワールドワイドなSNSで急に誰かに刺される恐れがある。つまり、観た映画について踏み込んだ感想をツイートしたくても、それがネタバレになるから扱えない。ふせったーで書くのも良いが、それは未見の人からしたらパンドラの箱なので容易には開けられない(=布教にはならない)。SNSの広大なマーケットでムーブメントを起こそうにも、オタクがこぞって配慮した結果、盛り上がるのは「○○○○○」の羅列。それは、「なんか盛り上がってるっぽい」の域を出られるのだろうか。

 

あるいは。「Z世代はネタバレに抵抗がなくむしろオチを調べてから鑑賞する」という言説が叫ばれるようになって久しい。それは、時間を無駄にしたくないからか。失敗をどうしても避けたいからか。私個人としては、わざわざ観に行った映画がすこぶる微妙で「微妙~~!」と眉間に皺を寄せながら帰路に着くのも大切な経験だとは思うが、他方で、ハズレを引きたくない心理もよく分かる。「普通の人」は、映画館での映画鑑賞は年に1本か2本なのだ。そりゃあ、外さないに越したことはない。だからこそ、公式がネタバレをどんどん投下していけば、ファンもそれに伴って感想のレイヤーを調整するため、TL閲覧が自然と「オチを調べる」行為に近づいていく。

 

この、「ファンが感想のレイヤーを調整する」というのが、実に巧妙だと思うのだ。配慮したいオタクは、結局は公式の許しを待っている。「これについて話題にしてOKですよ」「ここまでは語って大丈夫です」という、お触れを待っているのだ。『シン・ウルトラマン』の情報の出し方とそれを受けたファンの動きをずっと見ていたが、投下に連動するように、「今日から『ウルトラQ』まわりは語ってヨシ!」「ゾーフィに触れるけどまだゼットンの名は出さない」といった調整をする人が多かったように思う。それも、おそらく無意識に。もし「ネタバレやめてください!」と刺されても、懐から「公式の許し」という盾を取り出すことができる。その心理状態を、じっくりと誘導しているのかもしれない。(以前『進撃の巨人』が公式に「○○話まではネタバレOK」と告げた時も、すこぶるイマドキだと感じたものだ)

 

やはり、人は「盛り上がっているもの」に弱い。夏の夜の虫のように光に吸い込まれる。行列があれば近寄ってしまうし、車が多く停まっていれば気になってしまう。オタクの配慮は「○○○○○」ばかりで、どうにも「盛り上がっている」の可視化に欠けてしまう。であれば、公式自ら段階的に隠し玉とされていたアレコレを投下することで、「○」を取り払い、しっかりと「盛り上がっている」に見せようではないか。誰とでも繋がれるからこそ、誰にでも配慮しなくてはいけなくなった時代。その配慮こそがムーブメントを妨げてしまうのだとしたら。熱量の高い客層は、放っておいても公開直後に劇場に駆け付けるのだ。「そうでない人」の背中を押せるのは、「盛り上がっている」オーラに他ならない。

 

ちょうど同時期、映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』も公開後PVと題して同作の隠し玉をがっつりと公開していた。劇場公開から僅か18日後の出来事である。私個人の体感だが、これらに限らず、公開中にいわゆる隠し玉とされている要素をオフィシャルに明かす映画は、近年増えてきたように思う。どんどん投下し、どんどん語ってもらい、どんどん未見者を煽る。円盤ではなく銀幕で稼ぎ抜く。そんな勢いを感じる。

 

これからもこうした情報公開が業界で標準化されるのであれば、気になっている映画は早々に観に行かなければならないだろう。「公式からネタバレをくらう」という間違った日本語が、今まさに、映画産業で加速しているのかもしれない。

 

 

『ゴジラ バトルライン / GODZILLA BATTLE LINE』 #ゴジバト リリース1周年によせて

スマートフォン向けゲーム『ゴジラ バトルライン / GODZILLA BATTLE LINE』、通称「ゴジバト」が、2022年6月でリリースから1周年を迎える。

 

TwitterのTLで見かけて「おっ、新しいゴジラのゲームか。ちょっとやってみようかな~」と興味を惹かれて早一年。気づけば、このアプリを起動しない日はなかった。iPhoneのスクリーンタイム機能で起動時間を見てみると、ちょっとおぞましい数字が並んでいた。くわばらくわばら・・・。

 

出典:https://twitter.com/Gz_battleline/status/1527561103714455552

 

 

分かる人には「ゴジラ版のクラロワ」と伝えれば話が早いらしい。その『クラッシュロワイヤル』をやったことがないので個人的にはあまりピンとこないが、要は「ユニットをどう送るか」という話だろう。ゴジラ、キングギドラ、メカゴジラ、スペースゴジラ、ラドン、モスラといったお馴染みの東宝怪獣たちを場に展開し、敵のリーダーを先に倒した方が勝ち。戦術はともかく、ルールとしてはいたってシンプルである。

 

www.youtube.com

 

godzillagames.jp

 

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自分の戦績としては、アリーナランクKOM65は常連で、ランキングは毎シーズン200~400位あたりをうろうろ。そりゃあ上には上がいるのは承知だが、全世界累計140万DLのゲームでこの順位なら決して悪くはないだろう。課金状況としては、シーズン毎のプレミアムパスが610円で、冬に二度ほど諭吉さんで石を買ったかな。ここまで長い期間ひとつのゲームをやり込んだのは、おそらく生まれて初。まさか自分でもここまでハマるとは思わなかった。

 

毎日、日付変更の17時になるとアプリを起動。他の作業をしながらせっせと広告を流しまくる。デイリーミッションをクリアしやすいものに変更し、デイリーセールの内容も5回転で必要な★4を回収。デイリー探索地図も3回開けて、バトルを繰り返してパスを【今日はここまで】に到着させる。最低でもまずここまではやって、あとは探索の数をなるべくこなす。12時と0時に切り替わる時間短縮は必ず行い、3時間地図はGストーンを36払って開封。つまり6時間地図があれば広告短縮×3とストーン36で即開封まで持っていっている。なるべく地図の空きを増やしたいので、ここでの石は惜しまない。空きがあればあるほど金や虹との遭遇率は上がる。総進撃バトルで得られるポイントはアイコンや称号には使わずトークン・★4・マテリアルに全投入。とにかくバトルピースの強化に繋がることを第一に、日々のルーティーンをこなしている。

 

・・・といった分からない人には微塵も伝わらない話はともかく、このゴジバト、なにより怪獣のモデリングとモーション、そして音(鳴き声)が素晴らしいのである。シンプルにこれが強い。さすがの本家本元・東宝のTOHO Games。未プレイの読者諸賢には、とにかくこれを知って帰っていただきたい。

 

www.famitsu.com

 

SDとして描かれる怪獣たちは、登場すると固有の鳴き声を発する。これがマジで最高である。最高すぎて、たまにスピーカーに繋いだりイヤホンを付けたりしてプレイしている。ゴジラの底から響く咆哮や、キングギドラの威嚇するような鳴き声が、これでもかと堪能できる。そう、ゴジバトは実は良質な「東宝怪獣ASMR」なのだ・・・!

 

更には、『ゴジラ×メカゴジラ』の機龍は釈由美子ボイス、『ゴジラ S.P』のジェットジャガーは釘宮理恵ボイスが聞ける。怪獣たちがギッチギチに汗臭い鳴き声(褒めている)を撒き散らしている戦場に、唐突に「いくよっ!機龍!」だの「私の名はジェットジャガー」だのが鳴り響くのだ。このカオスな感じ、妙にくせになる。釈由美子と釘宮理恵の声が同時に堪能できる怪獣ゲームはゴジバトだけ!(そりゃそうだ)

 

 

 

そしてやはり怪獣たちのモーション。これがすごく良い。それぞれに個性のある動きをしてくれて、攻撃に移る際のモーションから、やられた時の倒れ方まで、細かいこだわりを感じるところ。ベタなところでゴジラの尾がしっかりゆらゆらしていたり、ミニラが攻撃を放つ際は可愛らしく屈んでから全身でバアッと放射能リングを吐く。スペースゴジラは攻撃前に両肩のクリスタルに二色の雷光が溜まるエフェクトがあったり、幼虫のモスラがやられる際は哀しいまでにあっけなく跳ね上げられてピギィィと悲鳴を上げる。固有の能力や必殺技もかなり原作準拠で、ビオランテは水場で強かったり、レジェゴジの熱線はビーム状に吐き続けるロングスパンのものだったり、機龍は上空から颯爽と降り立ったりする。

 

色々とシステム面で不満もあるにはあるが、やはり最大の魅力は怪獣それ自体にある。鳴き声、モデリング、そしてモーション。これらを堪能することに本懐がある。公式もそんな声を受けてか、1周年を記念してスタジオ&ジオラマ機能を搭載してくれるという。これでモデリングをぐりぐりと堪能できる!“待” ってたぜェ!この “瞬間” をよォ!今は亡きウルバトの需要が、ここに収束する。

 

 

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とは言いつつ、あまり贔屓の怪獣はおらずどれも好きなので、ユニットの構成は環境任せな感じ。確かに怪獣を愛でるのは楽しいが、勝てなきゃ面白くない。シーズンの切り替えを目安に月イチの頻度でバランス調整が入るので、その時々で環境が激変する。当時の構成をそのまま残しているので、振り返れば環境の変化を追うことができる。

 

 

リリースされてからまだ間もない頃。この頃はなんと、虫が環境を支配していた。虫虫大行進だ。カマキラスとデストロイアの幼体。彼らはとにかく数が多く、コストもそう高くない。大型の怪獣も取り囲んでメッタ刺しにすれば余裕で倒すことができた。カマキラスに挟まれて悲鳴を上げるゴジラ。デストロイアに囲まれて撃破されるメカゴジラ。目を覆いたくなるパワーバランスだが、それもそのはず、一度に複数の個体を攻撃できる範囲攻撃が可能なユニットがまだ少なかったのである。任意の場所に発動できる無人在来線爆弾やミサイル攻撃も幅を利かせており、隙をついてモゲラやB-2ステルス爆撃機で直接相手リーダーを狙う。そんな、「怪獣バトルといえば巨体と巨体のぶつかり合い!」というパブリックイメージからは程遠いバランスであった。

 

 

これではいけない!と調整が図られ、これまたびっくりするくらい、★4ユニットたちの能力が底上げされた。レア度ゆえかピースを重ねられない★4の怪獣たちが、低レベルでもある程度活躍できるようになったのだ。まずキングギドラが強い。この頃はとにかく革命的な強さだった。上空から放たれる引力光線は、たむろする虫たちを一斉に焼き尽くした。ドジャーーンと総崩れする虫たち。虫の時代は終わりを告げつつあった。また、敵の攻撃力に関わらず三度までは鉄壁ガードを発動するジェットジャガーが登場。彼に前線を任せ、その後ろでじっくりとテレストリスをウルティマに進化させる戦法が流行った。キングシーサーの弾丸力が注目され始めたのもこの頃だったか。

 

 

やがて★4の活躍も安定化し、その中でも特に用いられるのがキングギドラ・バトラ・テレストリス・ビオランテあたりに偏り始める。好守共に優れたキングギドラ、進化速度が速く打点が高いバトラ、進化は遅いがウルティマになれば馬鹿みたいに強いテレストリス、広い攻撃範囲で虫や戦車を蹴散らせるビオランテ。この頃から「モスラをリーダーにして進撃させたビオゴジを回復させ殴り抜ける」「ビオランテをリーダーにして水場でビオゴジを突進させる」「スペースゴジラで攻撃バフを継続させながらキングギドラとタッグを組ませる」といった複数のアプローチが出始め、やっと戦略のジャンケンが機能し始めた・・・ ような気がする。キングシーサーの受けとして優秀なメガギラスも大躍進。

 

 

そうこうしているうちに、空のキングシーサーことモスラレオ、任意の場所に降り立つことができ範囲攻撃まで兼ね備えた機龍など、ユニットのバリエーションが増えてくる。初期勢はようやく★3以下のピースが貯まってきたのか、ディメンション・タイドや冷凍ゾンテといった補助系のユニットを使うユーザーも増加。また、一度に三回攻撃できるスーパーXが驚きの壊れ性能で瞬く間に環境を支配。スーパーXを出されたらモゲラか機龍で撃退、という定番の落とし合いは今なお継続されている。エスパーコーラスが阿呆ほど強化されたこともあり、一時期は完全なる回復合戦にもなった。攻撃のリーチがあるデスギドラ、とにかく巨大なゴジラ・アース、スタンをかけられるFW版ガイガンなど、たまに顔を見ることもあるが、もう数ヶ月後にはこいつらが本格的に台頭してくるだろう。★4ピースの蓄積が待たれる。

 

 

そしてこれが私の最新の構成。正直、相手にやられたらかなり嫌気がさす戦法だという自負はあるが、そこは本当にすまないと思っている。スーパーXを主軸にした作りで、カマキラス・ミニラ・メーサー砲基地をわらわらと繰り出して大量のデコイに。足の速いキングシーサーやモスラレオにどんどんスーパーXを追い抜かせて、必要に応じてモゲラで敵ユニットを振り向かせて挟撃。スーパーXが敵リーダーを捉えたタイミングでゴジラが熱線を吐き攻撃力1.5倍。役満を狙うより連続で喰いタン上がりするような、細かな攻撃で押し切っていくスタイルだ。

 

 

敵リーダーをスタンでがちがちに固めた時の脳汁が忘れられなくてな・・・。すまない。

 

弱点としてはやはり機龍やモゲラといったピンポイントでスーパーXを狙ってくるユニット。ある程度は必要な交換なのでそのまま受けるが、タイミングよくキングシーサーやカマキラスを出せるとカバーも可能。キングギドラも遠くからちまちま削れば割と普通に墜とせて、むしろ厄介なのはビオランテかもしれない。やはりキングシーサーくんは強い味方。いつも助かる。左右どちらかに戦況を偏らせてから反対側に君を走らせるのが楽しい。

 

そんなこんなゴジバト。「スペースゴジラの結晶がビルに食い込むと対する飛行ユニットが迷子になる」とか「やられたファイヤーラドンが不必要にフィールドに残って当たり判定になる」とか「スタンと凍化のタイミングが合わさると永久凍結になってしまう」とか「とにかくやたら通信エラーが起きる」とか、仕様なのか不具合なのかよく分からない不満点もあるにはあるのだが、総じて楽しくやっている。今後も、パス課金が中心にはなってしまうが、ちまちまと遊び続けたいと思う。割と公式がユーザーの意見を細かく拾ってくれている印象で、初期の頃に感じていた不満や物足りなさは今ではほとんどクリアになっている。(特にギブアップ機能は本当に待望で、これが実装されるまでは切断切れの30秒を棒に振ることばかりだった。感謝。)

 

元よりゲームが得意な人間ではないのだが、やはりこれだけやり込むと勘が育つ。各怪獣のモーションが頭に入っているので、「ギリギリの所で競り勝つ」の見極めが、我ながらある程度の精度で出来るようになった。好きこそ物の上手なれ。

 

 

良質な怪獣ASAMR、そしてジオラマ機能も搭載ということで、「取りあえず怪獣を愛でてみるか・・・」というスタンスの人にもお勧めしたいゴジバト。一人用のモードも最近実装されたので、対人戦以外でもそこそこ遊べます。シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバースとのコラボも発表されたので、今後シン・ウルトラマンやエヴァも出てくるかもですね。

 

ゴジバト1周年、おめでとうございます。そして2年目、よろしくお願いします。こんなにスマホゲーにハマるのが初めてなので、いつか訪れるサ終に今から怯えるユーザーより。

 

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