ジゴワットレポート

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楽しめなかった映画『パディントン』に関する覚え書き

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続編が公開されるタイミングで、未見だった『パディントン』を鑑賞。言わずと知れた人気キャラクターの実写映画化ということで、それなりに期待して観たのだけど、こんなにも自分に合わないとは思わなかった・・・。

「パディントン可愛い〜 ほっこりする〜」って言いたくなるタイプの作品かと思っていたのに、私は終始不快寄りの感情が湧いてしまって、終わってからも「え?え?」と戸惑うばかり。楽しめなかったのが、残念でならない。

以下、「ここどうなのよ?」という点を書き置いていく流れなので、『パディントン』楽しめた!という人は、読まないことをオススメします。

 

まずもって何より、本作のリアリティラインが分からない。

これは、「喋るクマなんてリアルじゃない」とか、そういう程度のことを言いたい訳ではない。『トイ・ストーリー』に「おもちゃが動くなんてリアルじゃない!」とか、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に「タイムマシンなんて非現実的だ!」なんて言う人はいないのだ。

 

私が言いたいのは、まず、パディントンの存在そのものについて。探検家が山奥で知能の高いクマと出会う。ひと時を一緒に過ごして祖国に帰るが、彼らに危害が加わらないように、詳細な報告を避ける形で守ろうとした。これは分かる。喋るクマなんて希少だし、サーカスに引っ張りだこだろう。

しかし後年、実際にパディントンがロンドンを訪れると、道行く人は誰ひとりとして「喋る二足歩行のクマ」に見向きもしない。希少性があるから秘匿にされたのに、その希少性は全く発揮されない。まあこれは、時代の移り変わりとか、人々が忙しく行き来してたからとか、色々外的要因があるんだよね。そうだよね。でもさ、やっぱり「喋る二足歩行のクマ」がいたら騒ぎにならない!? ならないの!??

まあ、まあ、それが騒ぎにならない程のリアリティラインというか、寓話なのね、ファンタジーなのね、と思いながら観ていく。そうすると今度は、「喋るクマが珍しいから捕まえる」というキャラクターが出てくる。んん? 喋るクマ、誰も珍しがってないけど?  しかも、喋るクマを捕まえて、剥製にするという。・・・は、剥製? 喋るクマを剥製にしたら、それはただのクマでは??? なにその味噌汁から味噌を抜くみたいな話。

まずこの辺りのロジックのボタンを掛け違えている印象が強くて、乗り切れなかった。珍しいから秘匿されたクマが珍しいから敵に狙われるのに、誰も珍しがらない。あまつさえ、偶然スリを捕まえると人々から感謝されたりする。誰もその存在に疑問を唱えない。よく分からない。

 

次に、同じくリアリティラインの話として、パディントンの知能レベル。これが、劇中であっちにいったりこっちにいったりして、疑問が仄かなイラつきに変わってしまうという。

具体的には、「人語を操り読み書きも出来るのに、セロテープをちぎれない」「パソコンを触って目的の情報を引き出すことができるのに、歯ブラシの使い方を知らない」「マーマレードを収穫して加工する機械も扱えるのに、水を出して暴れるシャワーのホースを掴むことができない」、といったあたり。

これ要は何が気になるって、「パディントンがドタバタとトラブルを起こすシーンを作りたいがために、そこだけ知能レベルが下げられている」ということなんですよ。 人間社会に馴染みのない存在が、慣れない環境でトラブルを起こしてしまう。そのドタバタ加減、必死に対応する様が可愛く見えてくる。そういうシーンをやりたいのは十分に分かるのだけど、それをやりたいがためにそこだけピンポイントでパディントンを馬鹿に描いてしまうので、「トラブルシーンのためのトラブルシーン」という構図だけがやたら浮き彫りになる。そのトラブルによる損害が笑えない規模に達していることも併せて、本当に不快に思えてしまったんですね。あの家族もパディントンがトラブルメーカーだって痛いほど分かっているはずなのに、後ろを歩かせ、目を離し、家にひとりで残す。トラブルシーンを作りたいがために、馬鹿にさせられている。

そういうシーンをやりたいから、そこだけ登場人物が瞬間的に馬鹿になって、その後のストーリーではまた普通の知能レベルに戻る。そんなノイズがあっては、「パディントン可愛い〜!」なんて思えなかったです。可愛くて紳士的なのは結構だけど、突如前触れなく馬鹿になって家を破壊するのなら、絶対ウチには来て欲しくないよ・・・。

 

最後に、肝心のストーリーの部分。

パディントンは、故郷を追われ、新しい家を探して憧れの地・ロンドンを訪れる。そこで拾ってくれた家族はそれなりに問題を抱えていて、極端なリスク管理を掲げる父や、宇宙飛行士の夢を真剣に取り合ってくれない長男、ボーイフレンドとの距離感を手さぐり中の長女、という環境が出てくる。この手のジャンル物のセオリーとして、この家族がパディントンに家や家族を与えると同時に、パディントンこそが家族の諸問題を解決に導くきっかけとして機能し、家族が再生される、というパターンを期待してしまう。

しかし、そんなシーンは皆無に近い。子供が出来て慎重派になった父親は、パディントンを助けに行くシーンで彼がいなくとも勝手にやる気を復活させ、危険な橋を渡り出す。パディントンの行動に影響を受けたとか、そういうことはない。息子の宇宙飛行士の夢について、パディントンの何気ない一言が背中を押すきっかけになったとか、そういうこともない。娘のボーイフレンド関係も、パディントンは絡まない。母親は最初から最後まで世話焼きお母さんで、パディントンがいてもいなくても変わらない。

 

これ、「パディントンがいてくれたから」みたいな意味、あるんですかね。拾うのが野良猫や野良犬でも、ましてや家出少年でも、それでも成立してしまうんじゃないですか。パディントンが、クマだから、山奥で暮らしていたから、都会に夢を抱いていたから、両親を失った経験があるから、人間社会の機微にまだまだ疎いから、だからこそ何かを気付かせてくれたり、思い直すきっかけになった、みたいな構図が見られないんですよ。つまりは、この家族が欲しかった&大切にしたかったのはパディントンその存在ではなくて、ただ自分たちの庇護欲を満たしたいだけなのではないか、というふうに見えてしまったんですよね。

せっかくの、人間とコミュケーションが取れるクマというパディントンのアイデンティティを、この家族が、物語が、尊重できていない。

だからこそ、観ていて納得感が生まれない。なぜ家族が頑張ってパディントンを救おうとするのか、それが頭の中で「落ちて」こない。「そういうシークエンスだから助けに行く」に思えてしまう。

 

結論として総合すると、パディントンのマスコット的な描き方に尽きると思うんです。

パディントンを、マスコットとして描く。可愛くて人語を操るけど、なにかとミスはするし、トラブルを起こす。でも人々に愛される。そういう「点」だけを拾って、この手のジャンル物のセオリーに当てはめてシーンを作り、それ優先で物語を組み立てる。だから、リアリティラインはぶれるし、パディントンはシーンによっていきなり馬鹿になるし、家族は真の意味でパディントンと交流しない。

でもこれはある意味真っ当なやり方とも言えてしまって、長年絵本のキャラクター「クマのパディントン」として世界的に親しまれてきたマスコットだからこそ、ここまで割り切って「マスコット性」に注力することが許されるのだろう。だから、パディントンがとにかく動いて、あたふたして、なんか良い感じのシーンが紡がれれば、あとは彼の「マスコット性」が繋いでくれる、と。

私には、そういうバランスに思えてしまったのだ。

 

でもやっぱり、彼のマスコット性を活用しながらも、もっと適切なバランスに持って行くことは出来なかったのか、という思いが拭えない。私自身があまり「クマのパディントン」に思い入れが無いのも、楽しめなかった要因かも分からない。

とはいえ、映像と松坂桃李の吹き替えは素晴らしかったです。

 

クマのパディントン

クマのパディントン

  • 作者: マイケルボンド,R.W.アリー,Michael Bond,R.W. Alley,木坂涼
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  • 発売日: 2012/09/01
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