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感想『小説 仮面ライダーゴースト ~未来への記憶~』 それは執念すら感じさせる暴露本であり設定資料集

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小説 仮面ライダーゴースト ~未来への記憶~ (講談社キャラクター文庫)

 

『小説 仮面ライダーゴースト ~未来への記憶~』を読み終えた。率直な感想は、「稀に見る読書体験だった・・・」。

 

 

本作は、講談社キャラクター文庫から発売されている平成ライダー小説シリーズの最新作。

このシリーズは、作品ごとに何をやるかはバラバラで、TV本編時間軸のサイドエピソード・完全なパラレル・正統続編等々、メインライターやメインスタッフが作品を今一度紡ぐ機会として、ファンからは重宝されている。(と、私は思っている)

近年では、正統続編でシリーズへの目配せまでやり切った鎧武、作中の恋愛関係に結末を用意したウィザードなど、特に読み応えのあるものが多い。

個人的に、やはりシリーズ開始当初に(段階的とはいえ)一斉にリリースされた頃より、平均の完成度は上がってきているように思う。

 

『小説 仮面ライダーゴースト ~未来への記憶~』(以下『未来への記憶』)は、これまでの小説シリーズとはまた少し異なり、「本編で描かれることのなかった設定の説明」におよそ3分の2が当てられている。

シリーズでも随一の厚さ(ページ数)を誇る本書だが、蓋を開けて見れば、まるで暴露本かのような・・・ 設定資料集のような・・・ 恨み節とも取れるような・・・ そんな、未曾有の読書体験を提供してくれる一品となっていた。

 

というのも、私は、TV本編の『仮面ライダーゴースト』は、非常に「惜しい」作品だったと感じている。

以下、『ゴースト』の総括感想記事から引用したい。

 

jigowatt.hatenablog.com

 

改めて振り返ってみると、『ゴースト』は「個性と繋がりの物語」だったと感じる。

 

タケルは父から受け継いだ「英雄」という信条を念頭に、武蔵をはじめとする“強い個性”ともいえる「英雄」の力を借り、仲間との「繋がり」を常に意識しながら戦っていく。自身の蘇生が目的としてあるものの、そこをハングリーに追い求めていたのはむしろ周囲の方で、彼自身は常に第三者を思いやるというまさに仏のような存在であった。

対する眼魔は「個を奪うことが平和」という概念で世界が構築されており、あちらの世界の住民は肉体と魂が分離され、肉体を一種の人質にすることで完全に統率された社会を完成させていた。「個と繋がり」を絶った末に平和を実現した眼魔が、その方法論で人間社会に攻めてきた、という図式である。

タケルは、幼馴染であったマコト兄ちゃんの心を(自分=自分の仲間と)繋ぎ、アランの心を自分を通し人間社会そのものと繋ぎ、諸悪の根源であった仙人=長官を自分に惚れさせ、最後にはアデルの心をその他大勢と繋げた。

こうやって書き出すとまるで『フォーゼ』のように「みんなを友達にしていく」作劇でもあったのかな、という気もするが、それに対する眼魔軍団が「個と繋がりを奪った末の完全なる平和」を掲げて攻めてくるのは、構図としてはむしろ綺麗ですらある。

タケルはムゲン魂を通して「人間の感情」を学び、そして英雄を通して「色んな人間の生き方」を知り、「繋げる」という手法の様々なアプローチや側面を会得していく …というストーリーだったと思うのだが、思うのだが、思うのだが……。

 

 

ここに書いたように、『ゴースト』のメッセージは良い意味で単純明快で、「人間の繋がりの強さ」「未来への希望を信じる大切さ」「懸命に生きることの意味」等々、非常に前向きで普遍的なテーマを提示していたと思う。

それ自体は、作中でも終始タケルが言葉として叫ぶので、一応伝わってはくる。

が、その土台にある設定面・人物の機微・全体的な物語構造の明かし方や作劇が、とても唐突だったり、断続的だったりするので、根っこがグラグラのままタケルの熱いメッセージだけが響き、結果、それら全てが「浮いて聞こえてしまう」という空気を作り上げてしまったのかな、と。

 

「え?」というタイミングでさらっと重要な設定が明かされたり、理屈が全く説明されない展開が繰り広げられたり、かと思いきや、「今ここで説明してくれ~」という内容がいつまでも出てこなかったり、眼魔世界の諸々の設定や人物造詣が不透明なままドラマが進むので「!?!??」という状態になってしまったり・・・。

そんな「!?!??」が脳内に渦巻く中、タケルの「信じて!繋がり!希望を!可能性を!命!燃やすぜ!」だけがストイックに描かれ続けるので、新手の禅問答のような鑑賞だったのをよく覚えている。

ただ、小出しに出てくる設定面は結構面白いと思っていたので、純粋に「描き方」「出力」の問題なのかなあ、と・・・。

 

それでも、タケルが最終回で「周囲の皆にとっての英雄」になったのは、テーマの本懐だと感じた。

マコトやアカリ、アランや御成、皆にとっての英雄は、武蔵でもエジソンでもなく“タケル”なのだ。そしてその認定が行われた背景には、タケルがどんな時でも他者を優先し、誰かと関わり、自己を犠牲にしてでも“人と人の心を繋ぐ”ことに奔走してきた経緯がある。同時に、英雄をはじめとする先人からの、“学び”だ。

つまりこれは、メインターゲットである子ども達をはじめとした全ての視聴者が「誰かにとっての英雄になれる」というメッセージでもあるし、そのためには「他者を助け先人に学ぶ」ことが大事であると、非常に普遍的で真っ当な方法論を教えてくれている。

それがつまりムゲン魂が体現した「無限の可能性(=誰もが英雄になれる)」であり、そのためには、眼魔が否定した「個性」や「繋がり」を大切にしなければならない。各人が「個性」を発揮すれば眼魔世界のような“完全なる平和”は遠のくかもしれないが、それによって起こる人間関係のいざこざも含め、清濁全部ひっくるめても「人間には無限の可能性がある」。

多様性を尊重する『ゴースト』の肝は、タケルが英雄に認定された時点で綺麗に帰結しているのだ。 

 

私は『ゴースト』のテーマや最終的なメッセージを上記のように捉え、ブログにもそう書いたのがもう1年前の話だ。

1年後に、まさにそのテーマの根幹たる設定を完全に網羅した小説版を読むことになるとは、思いもしなかった・・・。

 

 

※以下、ネタバレを含む感想です。

 

 

『未来への記憶』は大きく三幕構成で描かれるが、その全ては基本的にグレートアイの視点で語られている。

本編で感じていた「そもそもグレートアイって何?」という疑問が、その御本人の自分語りによって綺麗に整理されて説明されるので、とってもありがたい。

全知全能の神とも呼ばれるグレートアイは一種のエネルギー生命体であり、そのグレートアイが移動手段として各星に設置していたのが「モノリス」だというのだ。

 

TV本編で地球に進攻してくる眼魔たちも、元は同じ地球人。

紀元前三世紀に独裁者からモノリスを通して他の星に逃れた民族が、そのはるか後年に、怪人の姿となって母星である地球を攻めてくる、と、こういう構図だった訳だ。

まあ、この全体像そのものは本編でも何度か示唆されてはいたのだけど、『未来への記憶』におけるグレートアイの淡々とした語り口で飲み込むと、理解度がダンチである。

 

ポイントはその眼魔世界で起こった百年戦争である。

赤い空が広がる劣悪な環境で生きていくための方法論で民同士が激しく対立し、そうして先導者であるアドニス大帝(アランの父)が人の心を緩やかに失っていく過程は、胸に迫るものがあった。

これを読むと、本編では祈りばかりに熱中して諸々に無関心という印象が強かったアドニスの見え方が180度変わってくる。

 

何より、ゴーストはその名の通り「おばけ」の話で、どこかファンタジーな空気を醸し出していたが、実は構造的には「ディストピアSF物」だったということに気付かされる。それも、まあまあハードなやつだ。

独裁者から逃れた民が、その移住先の見知らず惑星の環境に適合するために争い、やがて「肉体と精神を分離させ仮想世界で生きることが最良の方法である」という答えに辿り着かざるを得なかった・・・ という、いわゆる「誰も悪くない」タイプの物語。

登場人物全員が「民の平和」を願っていたはずなのに、いつの間にか歯車はズレていく。プリクエル版『猿の惑星』の2作目なんかを思い出したり。

 

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この前提が物語にあったことを踏まえると、タケルが「人間として命を燃やして精一杯生きる」ことを熱弁していたことに、非常に納得がいく。「心身分離」の答えに辿り着いていた眼魔世界との、綺麗な対比構造なのだ。

はるかな時の中で、ユートピアを目指してディストピアが完成してしまった眼魔世界に、タケルという純粋な存在が熱く干渉していく。

タケルは最終的に、眼魔世界の地球進攻を阻止し、眼魔世界の首脳陣の考えを改めさせ、百年戦争の末に辿り着いた答えを覆した。後のOV『スペクター』では、諸悪の根源であった赤い空までもを除去した。

紀元前三世紀から始まった眼魔世界の壮大な歴史に、天空寺タケルという存在が大きな革命を起こしたのである。

 

この、まるで手塚治虫の『火の鳥』を読むかのような壮大な年月の物語の終着点があのTVシリーズだったなんて、放映時には全く実感できなかった。

タケルがやったことは、本当にすごいことだったのだ。自分が生き返るだけでなく、眼魔世界にとっての「英雄」として命を燃やしていたのだ。

おそらく今改めてTVシリーズを観返せば、アドニスの苦悩も、アランの葛藤も、タケルの熱い思いも、何十倍にもなって沁みるのだろう。

 

「小説版を読んだから本編が更に面白く感じる」。それ自体は、この手のノベライズ展開には普通のことである。

しかし今作『未来への記憶』に関して言えば、さながら「小説版を読んだから色々と腑に落ちて本編が面白いことが予想される」というやつで、そういう意味で、とても悔しい一冊だ。

なんという読書体験!ページをめくって、新たな設定が出てきて、登場人物たちが深く葛藤する度に、こっちが拳を握りしめてしまう。「この厚みが!この熱さが!なぜ本編で味わえなかったのだ・・・!」と。

 

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そしてそれは第二幕で更に勢いを増していく。

タケルの親父・龍を主人公として描かれる第二幕は、モノリスを通して出会うマコトの父親の半生、ガンマイザーに対抗するべく選出された英雄とその力をいかに行使するかの全ての経緯、西園寺が眼魔世界と結託するに至った嫉妬の背景、マコトとカノンが眼魔世界に戻された流れ、タケルの出生とそこで繋がれた願い、龍の死の真相、等々が描かれる。

TV本編で断片的に描かれた設定や過去話の数々がびっくりするくらい綺麗に繋がっていくので、もはや何かのミステリーの解決編を読んでいるかのようなトリップ状態に陥り、またもや「なぜ!なぜ!」と心の中で叫びながら拳を握りしめる始末。

 

第三幕はエピローグで、またもやタケル殿がお家芸の生還を果たしたことに苦笑いしながら、レジェンドライダー眼魂の番外編・児童誌のDVD・OV『スペクター』等々で描かれたもの(または消化不良だったもの)をことごとく拾い上げるその執念のごとき展開には、やはりまたもや感動とは違う涙を流しそうになってしまった。

 

そう、執念。もしくは、怨念。恨み節でもあり、暴露本でもあり、設定資料集でもある。

なんなんだ、この小説版は。こんなことがあってたまるか。

300ページの中で仮面ライダーらしい活躍は僅かでただひたすらに黙々と設定を明かしながら説明していく、そんな狂気すら感じさせるグレートアイの抑揚を欠いた語り口に、次第に惹きこまれてしまったのは確かである。

 

ありがとう、『仮面ライダーゴースト』。やっとこさ、放送開始から2年を経て、その物語の心臓部分を目にできた気がする。

 

私の中の『仮面ライダーゴースト』は、ようやく最終回を迎えることができたのだ。

そんな、卒業式当日の午後のような心境で本書を本棚に仕舞ったのが、昨晩の話である。なんと悲しくも熱い一冊だろうか。

 

また数年後、TVシリーズを復習した後に、ゆっくりと読み返してみたい。

 

 

 

小説 仮面ライダーゴースト ~未来への記憶~ (講談社キャラクター文庫)

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